小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

おすそわけ

 9月に再就職をしてひと月。そろそろ馴れとともに、不満やしんどいことも出てきた。

 バシャバシャと秋雨の降る夜道を、下を向き、胸の中で恨みごとを唱えながら家路に向かっていた。いくら自分の中で煮えたぎらせたって何も解決しないのに、わたしはときどきこうして沸騰したままの思いを閉じ込めてしまう。
 雨が靴に染みこんでつま先が冷たくなると、なんだか自分が頼りないお婆さんになってしまったみたいで悲しくなった。

 角を曲がるとき、反対方向からきた60代くらいの夫婦とおぼしき男女が、わたしより先に同じ方角へ曲がった。狭い歩道なので、三人は一列になって歩く形だ。
 先頭のおじさんは酔っぱらって千鳥足だった。急いでいるわけではないけれど、それまでの歩行ペースが乱されて、最後尾のわたしは少しだけイラッとくる。

 そのとき、おじさんがふらつきながら振り返った。
「今日は良かったなあ、なあ」
「ええ、そうですね」
 おばさんの方はしっかりしていて、事務的な返答をする。
「あいつ、喜んでいただろう、なあ」
 おじさんはいちいち、おばさんに同意を求めるために千鳥足で振り返るので、車道に落ちやしないかとヒヤヒヤしてしまう。
「ええ、そうでしたね」
 長年連れ添った夫婦なのだろう、おばさんはそんなことはちっとも意に介さない様子だが、なぜか冷たい感じはしない。
「そうだろう。あいつ、喜んでいたよなあ、なあ」
「ええ、そうですね」
「ほんっと、ほんっとに良かったよ。あいつ、喜んでたよ。なあ、なあ」
 心から嬉しそうなおじさんの声を聞いているうち、こっちまでほんわかした気持ちになってきた。車が途切れたら車道に降りて二人を追い抜かそうと思っていたのに、とうとう二人の家の前までくっついて歩いてしまった。

 前を通り過ぎるとき、マンションのポーチで重たくなった傘を振っている二つのシルエットからは、まだ「良かった」が聞こえていた。
 そこからアパートまでの数分の道のり、わたしは、鼻歌を歌いながら帰ってきたのです。
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by etsu_okabe | 2004-10-06 01:19 | 日々のこと/エッセー