小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

名前の話・ジェスのお兄ちゃん

 モノに名前をつけるのが苦手だ。
どうしてみんな、ペットの名前や作文のタイトルやウェブネームなんかを、あんなに簡単に思いつくのだろう。家具やパソコンにまで名前をつけている人を、わたしは何人も知っている。そういう人は、出会ったばかりの人に、その人が死ぬまで使うようなチャーミングなニックネームをパパッとつけたりする。
 
 そう言えばたった一人、最後まで名前を知らないまま別れてしまった人がいる。
 あれは7歳か8歳頃のことだ。桑畑に囲まれた市営団地の公園に、毎日夕方、大きなコリー犬を連れてくる小学校高学年のお兄さんがいた。犬の名前は「ジェス」。お兄さんはいつもハキハキした声で、「ジェス、伏せっ」とか「ジェス、待てっ」とか言っていた。それで、団地中の小学生はお兄さんのことを「ジェスのお兄ちゃん」と呼ぶようになった。
 ジェスのお兄ちゃんは、時々わたしを呼びにうちのチャイムを鳴らした。「ジェスが君を好きみたいだから」と言って。お兄ちゃんもわたしの名前を知らなかった。
 ジェスのお兄ちゃんはわたしのことが好きだったんだと思う。わたしもジェスのお兄ちゃんが大好きだった。でも、ジェスを間に挟んで遊ぶことしか、わたしたちにはできなかった。
 ある日からぷつりと、お兄ちゃんが団地に来なくなった。子供のわたしはやりたいことが山ほどあって毎日大忙しだったから、名前も住んでいるところも知らない人のことなど、すぐに忘れてしまった。寂しい気持ちに向き合えるほど、心も成熟していなかったのだ。
しばらくして、わたしたちは学校で偶然会った。ジェスのお兄ちゃんは仲間たちとベイゴマで遊んでいた。片手にジェスのつな以外のものを持っているお兄ちゃんを見るのは、初めてだった。
「ジェスのお兄ちゃん!」
呼びかけると、お兄ちゃんは私の所に駈けてきて、ベイゴマを片手でいじりながら「ジェスは死んじゃったんだ。風邪をこじらせて」と言った。
 それが最後だった。まもなくジェスのお兄ちゃんは卒業して、中学校に行ってしまった。わたしは、お兄ちゃんが6年生だったことをその時初めて知った。
 
 ところで、このブログのタイトルにもずいぶん悩んだ。試験段階なので知人にもアドレスは未公開だし、TBも殆どしていない。おそらくまだ誰にも読まれていないだろう。そんなものでも、名前がついただけで、もうわたしだけのモノではないような気がしてくるから不思議だ。
ジェスのお兄ちゃんには最後まで名前がなかった。だからこうして三十年経った今でも、わたしだけのものだ。
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by etsu_okabe | 2004-04-13 03:00 | 日々のこと/エッセー