小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

映画「ぼくは怖くない」を観た

1978年の南イタリア。わずか6世帯だけの、豊かとは言えない村。その世間から隔離された陸の孤島で、世界中のどこの子供とも変わらぬ無邪気さと残酷さで夏休みを遊び倒している6人の子供たち。
その中の一人、10歳のミケーレ少年が、時々行く遊び場の廃虚の脇で、トタン板に隠された穴を発見する。恐る恐る覗いたそこには、足枷をはめられた裸の少年が潜んでいた。
深夜、両親たちの会話を盗み聞いたミケーレは、村の大人たちが少年の監禁に関わっていることを知る。

こうして始まる「ぼくは怖くない」
主役が子供たちであることと片田舎が舞台であることで、キングの「スタンド・バイ・ミー」と比べられることがあるようだが、わたしが映画の冒頭を観て思い出したのは、安部公房の「砂の女」だった。村を取り囲む広大な麦畑が、逃げる気を失わせる砂と同じものを象徴しているように思えたのだ。
穴の中の少年フィリッポは、自分は死んだものと思い込んでいて逃げる気力もない。この物語の中で「逃げたい」と切望しているのは、実は村の大人たちの方ではないだろうか。ミケーレの母親が、息子に「あなたはいつかここを出て」と言うシーンが、その全てを表わしているように思う。
貧困生活から逃避するために、豊かな大都会の子供を攫って穴に閉じ込めなければならなかった大人たち。一方、初めて出会う異邦人を助け出すことで、正義のヒーローではなかった父親を、そして麦畑の海原を、越えようとするミケーレ。どちらが、本当にそこから脱出できたのか。
これから見る人のためにその答えは書かないが、ラストの衝撃を「後味が悪い」と評する人もいるので、これだけは書いておく。わたしはあれを無情だとは思わない。物語の作者は最後に、主人公ミケーレに未来と希望を残していると思う。そうでなければ、外の世界の象徴であるフィリッポが、麦畑から天使のように現われるシーンの意味がないと思うからだ。
と書きながら、原作が気になってきた。小説であれば、残酷な結末も「あり」だ。いやむしろ、小説家は残酷に終らせたくなるのではないか。映画監督はその悲惨なラストを、原作を変えたとは思わせない手法=観客に委ねるという方法で、ポジティブな余韻を演出したのではないか⋯⋯んー、あとで原作を読もう。

さて話は変わるが、映画に二人の「オトコ」が出てくれば問わずにはおれない。それがたとえ10歳の少年であっても。
真っ黒に日焼けした肌、ウェーブのかかった黒髪、濃く長い睫毛、精悍な瞳。ミケーレ役のジュゼッペ君。
真っ白な肌、サラサラの金髪、うつろな瞳、折れそうに華奢な手足。フィリッポ役のマッティーア君。

さあ、どっち!?

⋯⋯わたしは断然ジュゼッペ君です。
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by etsu_okabe | 2004-04-23 23:10 | 映画/芝居のこと