小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

難儀なり、男のプライド

 電車で席を譲って、初めて怒られた。

 渋谷に向かう井の頭線。わたしはドア近くの座席に座っていた。本を読んでいたので、乗り込む人の足下が視界に入る。
 そこに、おぼつかない足取りがよたよたとわたしの前に立った。視線を上げると白髪が見えたので、反射的に席を立つ。「どうぞ」というと、むっとした顔がこちらを軽く睨んだ。
「それはどういう意味だ? 年寄りに席を譲るってのはそれはあんた、年寄りに失礼だぞ!」
 年寄りに席を譲っちゃならんと言っている。ぽかんとしていると、
「まあまあ、譲ってくれたんだから素直にありがとうって言えばいいんだよ。年寄りに見えたんだからしょうがないだろう」
 隣に立つ連れの同世代のおじさまが、苦笑いしながらなだめ始めた。ああなんだ、年寄り扱いされたことが気に入らなかったのか。
「いやだ。俺は座らない」
「じゃあまあいいから、あなた、座んなさい」
 連れの方のおじさまに促され、なら遠慮なくと着席。
 お二人の顔をよくよく見れば、まあ確かに「年寄り」と言うには微妙。決して若くはないけれど、いつものわたしなら席を譲らない、まだまだ脂ぎった年代。
 ただこの二人、えらくご機嫌に酔っぱらっていた。その千鳥足を先に見てしまったものだから、つい足の悪いお年寄りだと思って席を立ってしまったのだ。
「そりゃあさ、俺たちはあなたのお父さんくらいかも知れないよ。でも70前の人に席譲るなんて失礼だ。ねえ、あなたお父さん何年生まれ?」
 つり革につかまってフラフラ揺れながら、おじさまが話しかけてくる。
「12年です」
「ほおら、やっぱり同じくらいだ」
 周り中に聞こえる大声で、さすがに恥ずかしい。
「井の頭線はね、昔はあのビッコ席に、人なんて座ってなかったよ」
「は?」
「ビッコ席って、優先席のことだよ」
 連れのおじさまが解説してくれる。ひどい言い方もあったものだ。
「それが今はだめだね。全然空いてないね。とにかくあんたね、年寄りに席を譲っちゃだめだ!」
 支離滅裂で何を言ってんだか分からない。生まれて初めて席を譲られたのが相当ショックで、悪酔いしてしまったのだろうか。悪いことをしたものだと思い「すみませんでした」と謝ってから、なんだか滑稽でついくすくすと笑ってしまう。おじさまたちも、最後はわはわはと笑っていた。

 でもしかし。途中下車した彼らの後ろ姿を見送ってから、突如むくむくと怒りが沸き起こってきた。
 おっさんのプライドか何か知らないが、他人の「好意」に対して、あんな言い草があるだろうか。年寄りか年寄りでないか以前に、あのおっさんは「大人」としてどうなのだ。座った途端にタヌキ寝入りする野郎どもと、大差ないじゃないか。

 乗り物で年寄りには席を譲らないと決めていた友人のその理由が、「一度譲ったら怒られたから」だった。それもやはり男だったという。
 きっと自分の子供たちには「お年寄りには席を譲りなさい」と教えているだろうお父さんが、他人の親切には「ありがとう」を言えない。感謝の前にプライドだ。呆れ果てる話ではないか。
 それでもわたしは、今後も席を譲ります。
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by etsu_okabe | 2006-06-18 03:29 | 日々のこと/エッセー