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小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

人形愛|四谷シモン講演を聴く

 大抵の女性が、生まれて最初に愛着を持って接するおもちゃは人形だろう。まだ自分のオムツも取れたばかりという頃に、すでに抱き人形をおぶってあやして遊ぶのが女の子だ。
 それを見て「女の子は人形を自分の子供に見立て、生まれ持った母性愛を満足させているのだ」と言う人もいるが、なんだかピンとこない。わたしの場合は人形に自分自身を投影し、愛される自分を確認していたような気がしてならないのだ。決して両親からの愛情が不足していたわけではないのに(むしろ過剰なほどだった)、あれはなんだったのだろうと不思議に思っていた。
 そんな疑問に、答えが出た。

 昨日、吉祥寺にあるバサラブックスという個性的な古本屋が主催した「四谷シモン講演会」を聴講してきた。
「ゆうべ飲み過ぎちゃって……」と、ぼそぼそ声で始まった講演は約1時間半。お話の中で、シモンさんが「人は絶対に<私>から逃れることはできない。人間は<私>に閉じ込められた人形である」ということをおっしゃった。それを突き詰めて「人形とは自己愛である」とも。
 なるほど。わたしが人形に己を映して可愛がったあれは、愛情の補填などという複雑なものではなく、単純で純粋な自己愛だったのか。

 わたしの宝物のひとつ「太陽 1999年8月号 特集<人形愛>」の中でインタビューに答え、シモンさんはこうも言っている。
「人形を褒めるときに<生きているみたい>と言いますが、人形は死体です。温もりなどなく、ヒヤっとして堅くて静かで。だから、いい人形は死んでいるように見える。死んだ瞬間の姿のまま永遠に死に続けるんですよ」

 少女はナルシシズムに抱かれながら、己の「死」を愛でていたのだ。

 己の死を愛でそれを容認したあと、少女は「生」を生きるために人形を捨てる。その代替として、女は隣に寝ている男を性愛とは別の愛情で愛でようとしてきたのかもしれない。
 男は人形以上に、いやになるほどわたしを映してくれる。しかし男は死んではいない。どうしようもなく生きており、人形のように大人しくじっと愛されてはくれない。やっかいなことに、向こうからも愛してくる。その愛は、気ままで甘いだけの自己愛とは全く逆の、苦くて熱くて思い通りにいかない矛盾だらけの破壊愛だ。あ~くるし。

 先ほどから、一匹の蝉が狂ったようにベランダの洗濯物へ激突を繰り返す音に気が散って、話があらぬ方向へいきそうだ。この辺でやめておく。
 夏が終わるだけなのに、何か大きなものも失う予感がして、心細い。今夜は人形でも抱いて寝ようか……。


※余談
シモンさんは人形を「おにんぎょさん」と呼んでいました。それがなぜかとても印象的でした。
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by etsu_okabe | 2007-09-02 12:00 | 日々のこと/エッセー