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小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

カテゴリ:映画/芝居のこと( 27 )

 6月〜7月末、いやおそらく8月初旬まで、ほぼ缶詰めで執筆仕事をしている。書き下ろしの小説2本と、連載小説1本のためである。幸せ至極。こういうさなかの隙間のような“切り”に飲む酒の旨いことといったら。

 さてそんなときにでも、いやそんなときだからこそ、補給したくなるものがある。今回も、合間を塗って映画のDVDを2本観た。『ハンナ・アーレント』と『ヴェロニカ・ゲリン』。いずれも実在の女性を描いた物語だ。
 ハンナ・アーレントは、ナチス政権下にアメリカに亡命したユダヤ人思想家。戦後、ホロコーストの中心的人物であったアイヒマンの裁判を傍聴し、そこで見た彼の様子から『凡庸な悪』という言葉で人間の本質を説いたが、それが「アイヒマン擁護」と捉えられ、同胞たちから激しい怒りをかい、世界中から激しいバッシングにあう。
 ヴェロニカ・ゲリンは、アイルランドのジャーナリスト。90年代ダブリンにはびこり、少年たちにまで魔手を伸ばしていた麻薬組織に敢然と斬り込み、繰り返される嫌がらせや脅迫にも屈せず、その核にまで迫ったところで殺されてしまう。
 どちらの作品も、観客に迫ってくるのは「信念」である。どんなことがあっても、課せられた使命を全うするために、自分を信じ続ける力。
 彼女たちのような立場に立った経験はないから、これは想像するしかないが、ああした状況下でもっとも手強い敵は、孤独だろうと思う。家族や支持者がそばにいて励ましてくれても、それは容易に倒せる相手ではない。家族や仲間たちは彼女を愛すればこそ、危険から手を引いて欲しい、今すぐ世界から賞賛される駒も持っているのだからそっちを使って欲しい、という願いを持っていて、黙っていてもそれは滲み出てきただろう。それは彼女らにとって、もう一つの孤独になったはずだ。
 戦友は自分自身のみ。そうなったとき、それでも闘う強さはどこからくるのだろう。

 わたしもこうして利用しているが、SNSなどでたくさんの人がいろんな意見を発信する中で、「承認欲求」という小恥ずかしい欲望が、それ以前よりもあからさまになった気がする。わたしにもその欲求があるから、あからさまにされると小恥ずかしいのである。
 同意、同意、同意の数が、お金の価値と同じくらいはっきりとした自分の評価に思え、もっともっとと欲しがって燃料をくべている。なんとまあ、くだらない労力だろう。
 他人からの同意をより多く得ようとすればするほど、その人にしかできぬことから遠ざかっていくことを知るべきだと、この映画2本を観て強く思いつつ、妙な力こぶが入って次の仕事に向かおうとしている。
 ということで、「闘う女」を補給完了。良い映画を観た。
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by etsu_okabe | 2015-07-09 18:42 | 映画/芝居のこと
 映画『THIS IS ELVIS』観賞。

 わたしが物心ついたときのエルヴィスはもう無惨に太っていて、まったく魅力がなくて、袖に縄のれんをつけた派手なおじさん、くらいに思っていたのだが(今にして思えばあれは本物のエルヴィスではなく、モノマネだった)、十八歳のときエルヴィスファンの男の子と友だちになり(のちに恋人になった)、そこから全盛期のエルヴィスを知って、度肝を抜かれた。魂を奪われた。
 特に、買い集めたVHSビデオの中の、68年のテレビショー。
 50年代に一緒にツアーやレコーディングをしていた仲間達と、スタジオ中央に設えたステージに輪になって座り、セッションをするという超カッコいいスペシャル番組で、そこにいるエルヴィスは、ハンサムなアイドルではなく、一人のクールで繊細なミュージシャンだった。
 ステージを取り囲む観客の女の子たちの蕩けた瞳を、そのままわたしもして、何度も観てはうっとりしていたものだ。

 ところで、わたしは『ジャケットの外に出した開襟シャツの襟から伸びる男の首筋』にセクシュアルな魅力を感じるタチなのだが、そのきっかけはエルヴィスの50's ロカビリーファッションだったのだということに、この映画を観て気がついた(馬鹿でかい立ち襟時代のエルヴィスは、だからもう好きじゃない)。
 わたしに往事のエルヴィスを教えてくれた彼は、高校生の頃にはこのファッションをキメて、原宿のホコ天で踊っていた。同じロカビリーでも、全身レザーのガチガチリーゼントというダサいスタイルとは違う。現在のわたしから見ても、かっこよかった。もちろん「首筋」も。
 エルヴィスの歌以外、ロカビリーという音楽そのものにはまったく心を揺さぶられなかったが、あのメンズファッションは好きだった。のちに渡瀬恒彦や根津甚八のファンになったのもその「首筋」だ。彼らがヤクザやチンピラ役で着ていたあのジャケット+開襟シャツのファッションは、50'sの流れをくんだものなのだろうか。

 話をエルヴィスに戻す。
 映画では語られていなかったが、エルヴィスは14歳で見初めたプリシラを、16歳で結婚する頃にはすっかり自分好みの容姿に変えてしまっていた。髪を真っ黒に染めさせ、平成日本キャバクラ女子もかなわぬほどに大きく盛り上げさせた、南部女のスタイルに。バレエを習わせたのは、ダンサーの体型が好きだったからだと、プリシラのエルヴィズ暴露本に書いてあった覚えがある。
 社会学者宮台真司が『恋愛学』でばっさり斬ったダメ男の中のひとつ、女を自分好みに変えさせようとする男、そのメガトン級ではないか。
 プリシラはのちに、エルヴィスがあてがったダンス講師と恋に落ち、夫から心を離したのではなかったか。さもありなん、と思う。

 ひとつの才能に恵まれた内気で繊細な男が、スターになって世界中から愛され、非難され、あらゆるものを手に入れながら、何かを間違え、それ故に最も愛するものを失っていく。間違えを修正する間も与えられず、しまいに自身さえ失いそうになっても、スポットライトの下にその腐りかけた体を晒し続ける。
 歓声にも嘲笑にも手を振って笑顔を返し続けた挙げ句、死後でさえその人生を売り物にされ、消費され続ける。求められれば求められただけ応え続けなければならない、そんなスターの宿命を、冷たく記録した映画だった。
 エルヴィスの死の報にグレイスランドに押し寄せ、うなだれ泣き叫ぶファンの群衆の映像を見て、エルヴィスは世界に愛された、とはもう言えない気分だ。
 エルヴィスは世界に楽しまれた、のだ(わたしも含めて)。

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by etsu_okabe | 2014-05-25 13:11 | 映画/芝居のこと
 『わたしの可愛い人 シェリ』をDVDにて鑑賞。
 19世紀、ベルエポックのパリ。高級娼婦を引退し、悠々自適に暮らすレアと、息子ほど歳の離れた若い男シェリの、愛憎の物語。

 錚々たるセレブリティの著名人や名士たちと浮き名を流し、渡り合ってきたレア(推定40代半ば)は、19歳にして放蕩の限りを尽くしたシェリにとって、洗練された理想の女。軽い気持ちで恋人となった二人は、思いがけず6年もの歳月をともに過ごすが、やがてシェリには若い娘との縁談が持ち上がる。
 高いプライドゆえに、シェリを手放すレア。しかし心は張り裂けんばかりで、一人傷心の旅に出る。おそらくもう50代に入っているだろうレアは、それでもまだ色の衰えはなく、シェリと変わらぬ若い男に言い寄られて自信を取り戻すが、シェリを忘れることはできない。
 一方シェリも、若いだけで知性も面白みもない若妻に魅力を感じず、レアへの恋慕に苦しむ。
 レアが旅から戻ると、シェリはレアの元へ戻る。狂喜するレア。しかしそのレアの振る舞いは、シェリにとって幻滅させられるものだった。
 シェリの態度から、愛の冷めたことを察するレアは、再びプライドを取り戻し、彼を妻の元へ帰す。

 去っていく若い恋人に、レアが最後に放つひと言、
「ここにいたのは、老いた女だったのね」(確かそんな台詞だったと思う)
 この言葉で、観客であるわたしたちは、一瞬、レアの悲劇が「老いによる衰え」であると思ってしまうが、それは違う。シェリが幻滅したのは、プライドを捨てて自分にしがみつこうとした、レアの弱味なのだ。シェリが愛したのは、いつでも凛として誇り高く、そのうえで美しいレアだった。
 しかしまあ、そのレアの弱気の源泉は、確かに「老い」だ。

 印象的なシーンが、ふたつある。
 ひとつは、若い妻を娶ったもののレアへの思いを断ち切れず、家から出たシェリが、酒場で声をかけてきた老女のたるんだ首を見て、怖気を震う場面だ。そこに、レアが持っていたのと似たパールのネックレスがかかっているのを見て、シェリは老女にレアの姿を重ねたのだ。
 次の瞬間、老女はパールをつまんで「これはイミテーションだよ」言って下品に笑う。つまり、この老女はレアではない。レアがレアのまま老いても、その老女にはならない。シェリにはそれがわかっただろうか。
 もうひとつは、レアがお茶会の席で、自分と変わらぬ歳の元高級娼婦仲間が、若い恋人を侍らせているのを見る場面。豚のように太った中年女が、あられもなく大声ではしゃいで、どう見ても不釣り合いな恋人にキスを迫るその醜い様に、レアは自分とシェリの姿を重ねて、鳥肌を立てる。
 このカップルも、レアとシェリの姿ではない。このカップルが無様なのは、女が中年で男が若いからではなく、二人がただ下品だからだ。
 それなのにレアは、そしてまたおそらく観客も、そこに己の「醜悪さ」を見つけてしまう。いやもっとはっきりと言えば、「女が老いることの醜さ」を見つけてしまう。

 「老いる」というのは、ただ歳をとって醜く変化していくってことではない。誇り高く老いることも、輝かしく老いることも、美しく老いることだってできる!
 と、拳を振り上げたいところだが、この映画を観終えて、どうにも拳が重たくて持ち上がらない。この映画は、女に対してなんて意地悪な描き方をするのだろう。
 
 レアはシェリを手放したのち自殺した、とナレーションが入って、物語は終わる。
 どれほど歳をとろうと「女」として生きたい女の末路としては、あれ以外にはないのだろうか。哀れまれるより、死、なのだろうか。それがあの時代、花のように生きた女の最期として、ふさわしいのだろうか。
 どろっとしたものが胸に残ったが、原作を読みたくなる映画だった。
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by etsu_okabe | 2013-09-02 10:13 | 映画/芝居のこと
 ウディアレン『ギター弾きの恋』を鑑賞。

 多くのミュージシャンや音楽関係者からその才能を認められ、本人も自らを天才と豪語しながらも、フランスの超天才ジャンゴという決して越えられない壁の陰で名声を掴み損ね、いつしか世の中から忘れ去られてしまったギタリスト、エメット・レイの人生を、要所要所で彼を知る関係者たちのインタビューを挟みながら追っていく物語。
 表向きは豪快で破滅的に振る舞っていても本性は気の小さなはったり男であるエメットの、才能はあるのに成功できないジレンマや、無償の愛を注いでくれる女を足蹴にしながらも甘え続けるサイテーぶりや、打算から結婚した上流女の裏切りによって無償愛の尊さに気づいたときにはすでに時遅しのマヌケぶりや、それ全部ひっくるめてとにもかくにも「せつない」が溢れ出てしかたなくなってしまうこの映画の、見どころや褒めどころなんかはもう全部とりあえず横においといて、

 わたくしこのエメット・レイを、実在の人物であると思いこまされて鑑賞しました! ぐおーーーー!! 

 最後のシーンで「ジャンゴを越えた」とナレーションされた、彼が失踪する直前にレコーディングしたという音源を聴きたく思い、wikiってその事実を知った。ほんっっっっと、びっくりした。してやられた。あの下がり眉メガネ男め!
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by etsu_okabe | 2013-06-02 23:07 | 映画/芝居のこと
 吉原というと遊女に注目が集まりがちですが、その脇で鍛錬された極上の芸を添え、花街を輝かせていた芸者という職業は、現代にも引き継がれている数少ない江戸文化として、触れてみたいもののひとつでした。
 ドキュメンタリー映画『最後の吉原芸者みな子姐さん―吉原最後の証言記録』
 監督は、わたくしの小説の師であった安原顕さんのお嬢様、日本文学を研究されている文学博士、安原真琴さんです。
 この映画の試写会が、わたしのお気に入りの遊び場ベルベットサンにて催されることになったそうです。トークショーのゲストにはあのヴィヴィアン佐藤さんが! 今から楽しみ。

ドキュメンタリー映画「最後の吉原芸者みな子姐さん」を上映したい
●映画公式サイトはこちら→http://www.makotooffice.net/
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by etsu_okabe | 2013-04-11 00:57 | 映画/芝居のこと
『Crimes of Passion(クライム・オブ・パッション)』鑑賞。
 いっときケン・ラッセル祭りを敢行していくつか見たが、振り幅が大きくて面食らってしまうこの監督の、これはわたくし的には二重丸の作品。
 男が放出せずにはおれない性欲と、女が求めずにはおれない愛の、斬り合いのようなすれ違いに共感しきり。
 昼はキャリアウーマン(デザイナー)、夜は街娼という主人公チャイナブルーが、昼間の仕事と同様"完璧"に、客の要求通り夜の仕事をこなす様に目を覆いながら、渋谷円山町で同じようにズタボロに働いていた、東電OLのことを考えずにはおれなかった。
 神様はなぜ、男と女を作ったのだろう。
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by etsu_okabe | 2013-03-28 21:53 | 映画/芝居のこと
 映画『ヘヴンズストーリー』を観てきた。4時間半以上に及ぶ長編が語るテーマは、喪失、憎悪、そして再生、といったところだろうか。
 物語は9章からなり、それぞれ「両親と姉を殺された少女」「妻子を少年に殺された男」「復讐代行(殺人)を副業にする警官」「理由なく若い母親と赤ん坊を殺した少年」「母子殺人犯の少年を養子にする若年性アルツハイマーの女」といった主人公たちが、物語を生きながら交錯していく。
 ことにメインのストーリーとなるのは、ともに家族を殺害という形で失った、少女と若い男との交わりだ。
 家族の命を残忍に奪われたことによる喪失を「憎しみ」で補填し、テレビの記者会見で「司法が許しても俺が必ず犯人を殺す」と復讐を誓って見せた男。同じように家族を殺されたが、犯人の自殺によって復讐する相手を失ったため、その喪失を『男の復讐を見届ける」ことで埋め合わそうとする少女。
 新たな家族を得ることで癒され、復讐を忘れかけていた男に、少女は憎しみを思い出させ、再び男を復讐に向かわせる。その果てに二人が行き着いた場所は……というお話。

 鑑賞中、わたしはずっと自分の喪失について考えていた。
 家族の死というような深く大きく抉られた穴、失恋や友人との喧嘩別れなど、あとからくっついたものがポキっと欠けた痕にできた浅い穴、わたしにも、埋まっていない色々な欠損がある。それでも時間を経て傷は癒えているから、ふだん痛んだりしない。しんどい状況に陥ったとき、冬場の古傷のようにちくっとすることはあっても。
 憎しみは、そうした「癒え」を妨げる。抉られたばかりの欠損部の痛み止めとして即効性はあっても、いつまでも毒で傷口を膿ませ続ける。痛い、憎む、痛い、さらに憎む、痛い、もっともっと憎む……。そうこうするうちに全身が化膿して、憎しみにかられた人は化け物になってしまうのだろう。

 この映画は最後に、主人公たちに「再生」を見せる。それによって全身膿み腫らした彼らの傷が癒えるという示唆なのか、考え考え帰途についたが、いまだにわたしにはわからぬままだ。
 何度でも考え直せ、と言われているような気がしてきた。

 映画『ヘヴンズ ストーリー』公式サイト
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by etsu_okabe | 2013-02-03 22:19 | 映画/芝居のこと
 快楽は生きる糧であり、動機でもある。苦しいこともしんどいことも、その先にある快楽が予測できるからこそ乗り越えられる。快楽なくしてなんの人生ぞや。No Pleasure, No Life. 快楽礼賛、ビバ快楽!
 などとふだん気取って吐かしてはいるが、人生を豊かにしてくれる達成感や充足感といった「清らかな快楽」とはまったく別モノの、即物的な悪魔の快楽のほうにより馴染みのあるわたしとしては、笑いごとではない映画、『酒とバラの日々』を鑑賞。

 酒好きの陽気な男と、チョコレート好きの女の子が、恋に落ちて結婚をする。日々の接待仕事で酒に明け暮れる夫が、赤ん坊の世話にかまけて自分を顧みない妻をなじって発する「酒でも飲んで待っていてくれればいい」から始まる、二人のアルコール地獄。これがこの映画の物語のすべてだ。
 入院治療と更生施設を経てアルコール中毒から立ち直った夫に、アルコールと手を切れない妻が言う「さみしいの」「飲んでいないと世の中が汚く見える」という台詞は、快楽依存の果てに行き着く底なしの渇望を想像させ、わたしを震え上がらせた。
 この世にあまたある「依存症」を誘発する快楽。豊かな世の中というのは、この悪魔の触手をかいくぐるサバイバルゲームなのではなかろうか。
 ……とかなんとか考えた直後、今夜は家に一滴の酒の用意もないことに思い至り、「しまった!」と発してしまう体たらく。
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by etsu_okabe | 2012-11-17 19:09 | 映画/芝居のこと
 監督自身の失った記憶を取り戻す旅という、ごく私的な物語を、アニメーションで表現したドキュメンタリー。

 1964年生まれのわたしにとって、ものごころついた頃から、中東はいつでも戦争まっただ中だった。ニュースで「パレスチナゲリラ」という言葉を聞かない日はなかった気がするくらいだ。
 「日本はもう二度と戦争をしないんだよね、ね、そうだよね」
 父に、何度たずねたか分からない。
 「大丈夫だよ、日本は絶対に戦争しないから」
 返事を聞いて、この国に生まれて本当によかったと、そのたびに思ったものだ。
 わたしにとって『8月に思い出す大昔の悲しい過去』である戦争を、よその国ではまだやっているということは、怖いのと同時に不思議だった。幼い頭には「きっとあの国、遅れているんだ」としか考えられなかった。

 1982年、18歳のわたしはそう難しくない地元短大への進学を決め、受験勉強もせずに夜な夜な家を抜け出しては飲み歩くような、怠惰な日々を送っていた。
 同じ年、この映画の監督アリ・フォルマンは19歳で、イスラエル軍に徴兵され、レバノン侵攻に参加していた。そこで起きた「パレスチナ難民大虐殺」こそが、彼の頭からすっぽり抜け落ちている記憶だ。
 空いた穴を埋めるために、アリはかつて共に戦った仲間を訪ね歩く。それぞれの口から、それぞれの記憶として語られる戦場が、アニメーションによってときに幻想的に、ときにリアルに描かれていく。

 「アニメでしか描けなかった作品」
 この映画に贈られている賛辞だが、その本当の意味は、最後の最後になるまで分からない。
 ラストシーンの衝撃は、アリ監督が記憶を取り戻したときの衝撃そのものなのだと思う。監督はそのショックを観客に体験させるために、ここまでのアニメーションを作ったのに違いない。わたしはそう思う。

 「国」のゼッケンをつけて戦っている最中には見えない重大なものを、戦争は生み、そして奪う。ゼッケンを外したとき、その重みと虚しさに、人はたった一人で立ち向かわなければならない。
 戦争が最悪なのは、そこのところなのかもしれない。


【戦場とワルツを】トレイラー

 上のトレイラーでも最後にちらっと出てくる、この映画のタイトルにもなっている名シーン、銃撃戦の中、兵士が機関銃を乱射しながら踊るワルツ【ショパン/ワルツ第7番 嬰ハ短調 Op.64, No.2】。大好きな、エフゲニー・キーシン君でどうぞ。↓↓↓


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by etsu_okabe | 2010-01-14 03:12 | 映画/芝居のこと
a0013420_13124177.jpg 昔の話だが、恋愛関係の中で激しく傷つけられたとき、思春期にもできたことのない重いにきびが顔中にふき出し、たいそう醜くなったことがある。その頃は、ただ純粋に相手を想っているだけの自分が哀れで惨めで、毎日泣き暮らしていた。食べても食べても痩せ、一日中頭がぼんやりしていた。そのうち彼のことを考えていなくても、往来であろうが人前であろうが、ぼろぼろと泣くようになった。
 あのときわたしはやはり、少し自分を狂わせていたのだと思う。自己防衛力が強いので最後は自分が可愛くてそうなる前に逃れたが、あの先には、彼の家に火をつけたり、ナイフを持って待ち伏せしたりするわたしがいたかもしれない。
 想いが強くまっすぐであればあるほど、ちょっとした衝撃でぽきっと折れる、それが人の心だ。以前に書いた清姫もそうだが、一途がそのまま火を吹けば、人は簡単に、靴下を裏返すように鬼に変貌する。

 初春花形歌舞伎@新橋演舞場昼の部を観てきた。それぞれ素晴らしい舞台だったが、白眉は市川右近「黒塚」。

「黒塚」は、安達ヶ原の鬼女伝説を下地にした芝居だ。
 伝説では、京都の公家屋敷に奉公していた岩手(いわで)が、病にかかった姫を助けるには胎児の肝がよいと言われてそれを信じ、奥州安達ヶ原でまんまと臨月の女をとらえ、その腹をかっさばいたところ、それが生き別れた自分の娘だったことを知り、狂う。以来岩手はその場所で、旅人を殺しては生肝を食らう鬼女となった。
 歌舞伎の「黒塚」は、岩手が鬼女になるまでのストーリーが少し違う。彼女は夫の裏切りで一人寂しい安達ヶ原に取り残されたという身の上で、夫への怨みを募らせるうちに鬼となり、人を殺し続け、それをまた悔いてもいるという設定だ。
 ある日、たまたま一宿を乞うてきた旅の僧に、仏道へ入れば救われると説かれて喜んだのもつかの間、岩手は僧たちの裏切りを知り、再び鬼女となって憤怒の炎を燃え上がらせる。
 このシーンが凄まじい。その直前、救われると喜び浮かれて舞った踊りが、娘のように可愛らしかっただけに、それは恐ろしいというより哀れで悲しい変貌だ。
 岩手は最後、僧たちの法力の前に、己の浅ましさを恥じて消えていく。
 理不尽な、とどうしても思う。岩手を鬼女にしたのは夫なのに、彼女は鬼になってもその怨みを晴らせなかったどころか、死ぬまで自責に苦しまねばならないのだ。

 わたしの顔には、あのときのにきびが痕になって、今も残っている。それだけ人を好きになった勲章だ、などとうそぶいていたこともあるが、醜いものは醜い。消せるものならきれいにしたいと思う。
 気づかぬうちに、わたしもこうして人に痕を残していやしないか、気になった。鬼にしたことはないと思うけれど……。
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by etsu_okabe | 2010-01-11 13:23 | 映画/芝居のこと