小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

カテゴリ:日々のこと/エッセー( 210 )

ワイセツについて

 ロリコン漫画でしか「抜け」ない男性vsそうでない人たち、の熱いトークバトルが繰り広げられる深夜番組を、ちょっと前に見た。
 ロリコン側の何人かが、現実の女性とセックス経験がないことを、清水の舞台からダイブするような顔でカミング・アウトしていたのが面白かったが、あとは訳の分からぬ言い合い、けなし合い。
「我々はロリコン漫画で<抜ける>から、現実の少女に手を出さずに済んでいるのだ!」
「おめーらはただの変態だ!」
 とまあ、こんなやりとりが続くばかり。
 論点をはっきりさせーい! と画面に向かって言いながらも、しかし空回りする主張の内容がものすごく面白くて、ずるずると最後まで見てしまった。

 ひとつひとつの主張は面白いのに何故「話し合い」がつまらなかったのか。これは、ロリコンではない側の人たちに「正常・健全」という立場をとらせたのが問題だったと思う。そのせいで、必然的にロリコン側が「異常・不健全」となってしまい、案の定それが犯罪に結びつく可能性についての話しになってしまって、議論がむちゃくちゃになった。

 セックスはただの「行為」だが、容認しない相手と無理矢理セックスするのは「犯罪行為」だ。それと同じように、ワイセツはただの行為であって、別に犯罪ではない。不健全な性行動をワイセツと言うのなら、人間みんなワイセツ。あんたもわたしもワイセツ。ただ、そのワイセツの度合いが個々でちょっと違うだけ。
 たとえば、健全な性行動ってどこまで? アレをアソコに入れて射精するだけ? まさか。キスしながら○○を××することだって、愛情表現の一つとして「健全」にカウントしていいよね。あと、△△を◇◇してあげることだって、健全の範疇に入るでしょう。だって、みんなしてるもんね。わたし的には□□や○○もOKよ。あなた的には不健全?
 ところが、何十年か前には、女性が男性の△△をお口で◇◇するなんて、ありえないことだった。そういうことは「玄人さん」がやることで、貞淑な妻がそんなことを強要されたら舌噛んで死んでしまうくらい「恥ずかしい」ことだったのだ。
「新宿情話」という本の中では、中国から来た風俗嬢が「日本人の男は口を使うからいやだ。中国人の男は絶対に口は使わない」と言っていた(しかし10年後はどうだろうか)。

 とまあこんな風に、性欲・性行動の不健全性(異常性)なんて、時代と土地柄にリンクした流動的なもの。それをテレビ番組で論じ合おうというのであれば、もう「今現在、一般的にどこまでのワイセツ行為が性道徳的にOKか」という点しかない気がするんですが、どうでしょうか?
「アニメのキャラに欲情するにしても、峰不二子ならいいけど、ハイジはヤバイんじゃない?」
「いやいや、ハイジだっていいでしょう。でもユキちゃん(やぎ)はまずいよね」
 結論は絶対に出ないだろうけど、こんなトークバトルの方が、きっと面白かったはず。だめ?

 不義密通で死刑になった時代も、妻以外の女性を囲うことが「甲斐性」として尊敬された時代も、それほど遠い昔ではない。年端のいかない子供に性愛を感じることも、二次元のキャラクターにしか欲情しないことも、いつか何かの拍子に市民権を得るかもしれない。いやそれとも、宗教が生まれるより遥か昔、すでに当たり前なこととして「あった」か。性道徳なんて、その程度のものだという気がする。
 収集がつかないので、最後に、今回ワイセツに関して書こうと思ったきっかけ、たまたま読み返した大好きな谷川俊太郎さんの詩を抜粋して締めよう。
     *
<ワイセツについて>  谷川俊太郎
どんなエロ映画でも
愛しあう夫婦ほどワイセツにはなりえない
愛が人間のものならば
ワイセツもまた人間のものだ
〜〜〜中略〜〜〜
そしてこんなにみにくく 恥ずかしく
私たちはワイセツだ
夜毎日毎ワイセツだ
何はなくともワイセツだ
     *
 あ、そうそう、アメリカ人が占領先で陽気に捕虜を裸に剥いたアレ、拷問だとか虐待だとか言われているけれど、あれは完全に「ワイセツ犯罪行為」、つまり強姦だと思いますけどね、わたしは。
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by etsu_okabe | 2004-05-14 16:36 | 日々のこと/エッセー

曖昧な記憶・20世紀少年

a0013420_241.jpg「実際に起こらなかったことも歴史のひとつである」と言ったのは寺山修司だ。マンガ『20世紀少年』を読んでいて、この大好きな言葉を思い出した。

『20世紀少年』は、70年代の悪たれ小学生たちが夢想した物語を、数十年後、誰かが現実に行っていくという話し。その夢想の中身とは、細菌兵器を使った世界征服だった。
「誰が俺たちの<よげんのしょ>を実行しているのか」
かつての子供たちは集結し、自分たちの描いた悪夢の実現を阻止すべく見えない敵と戦い、犯人を突き止めるため数十年前の記憶を辿りはじめる。しかしそれは、あまりにも曖昧な断片でしかなかった。ガキ大将にいたぶられたことは覚えているくせに、誰かを傷つけたことはなかなか思い出せない。
そんなよくある<子供の無邪気な残酷さ>をファクターにしたことが、このマンガの凄いところだ。何度どんでん返しが繰り返されようとも、多くの人がこのストーリーに飽きたり萎えたりすることがないのは、読み進む間中、主人公たちとともに己の過去を振り返り、恐怖しているからではないだろうか。

小学校3年で転校した時、いわゆる「転校生いじめ」に遭った。前の学校ではクラスの中心的存在で人気者だったわたしにとって(今と正反対!ヤなガキでした)、それは生まれて初めて味わう屈辱感だった。傷つき方も尋常ではなかったと思うが、親も先生もあまり親身に対応してくれなかった。
わたしは逞しく自力でいじめに抵抗し、やがてそれまでクラスを牛耳っていたイジメっ子の「女王様」を撃退した。クラス中から感謝され、その一件は語り種になった。当然、わたしの中でも「自慢の逸品」の記憶として心にしまってあったのだ。
ところが、いい大人になったある日、偶然合った小学時代の同級生から「あたし、小学校の時えっちゃんにいじめられた」と告白されて面喰らった。
「うそ、まさか!」
「え、覚えてないの、えっちゃん?」
相手もとまどっている。よくよく聞くと、女王と戦っていたはずの頃、一時なにかの拍子でわたしと女王が仲良くなり、二人で彼女を仲間外れにしていじめたというのだ。
全く信じられないが、彼女の話を聞くうちに、だんだん記憶が蘇ってきた。校庭の鉄棒に女王と二人ぶら下がりながら、一緒に遊ぼうと寄って来た彼女を邪険に扱うさま。
ショックだった。この時まですっかり忘れていたのだ。彼女には、その場で深く謝罪した。
しかしその後一人になると、もやもやとした感情に襲われた。あれは本当に<蘇った記憶>だったのだろうか。彼女の話に影響されてうっかり<作ってしまった記憶>ではなかったろうか。やっぱりわたしは彼女をいじめたことなんてないんじゃないか......考えれば考えるほど、彼女をいじめた記憶が事実なのか作りモノなのか分からなくなった。今でも分からないままだ。

これほど、人の記憶は頼りない。<実際に起こった記憶>ではなく、<自分に都合のいい記憶>を心に綴りながら生きている。『20世紀少年』は、そうした人間のエゴが引き起こす悲劇を、21世紀という絶望的な未来に向けて撃ちこんだ作品だ。
わたしは単行本で読んでいるので(それも友人からの借り物)現在16巻。一体どんな結末が待っているのか、恐いもの見たさで心待ちにしている。
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by etsu_okabe | 2004-05-11 02:05 | 日々のこと/エッセー

ネット贋作作家

WEB日記やブログに、他人の文章をそっくり盗んだり、真似たりしたものがあるらしい。<参照記事>
フリーのサービス(ここのエキサイトブログのような)を利用する場合、本名も住所も登録する必要がないし、メールもフリーWEBメールを登録してしまえば身元は分からない。匿名である気安さと、ワンタッチでできるコピー&ペーストに大した罪悪感を感じることもなく、盗用に手を染めていくケース、結構あるのかもしれない。
それにしても、他人のテキストをそのまま発信することに、どんな目的があるのだろうか。

美術の世界に贋作というのがある。現存する作品を模写したものもあるし、そうでない、オリジナルのニセ作品(非常に矛盾した表現ですが)というのもある。巨匠の作風を真似た、贋作作家のオリジナル作品だ。それを<巨匠のオリジナル作品>として世に出し、大金をせしめる。
贋作作家は一生日の目を見ない。彼らの身分が表に出る時、それは自分の作品が抹殺される時だ。そんな矛盾の中に生きる彼らの満足感は、大金を得ることか、もしくは自分の技術でアホな大金持ちを騙すことか、いずれかにあるのだろう。わたしなどは、そういうところに魅力を感じてしまったりもする。

一方、ネットの贋作作家には、そういうまっとうな満足感を全く想像できない。

ネットの魅力は、無名の個人でも無数の人々に向かって自由に発信できるところにある。ある意味「垂れ流し」だから、どちらかというと受け手側にしっかりした意志を求められる世界だ。メディアリテラシーという言葉が言われるようになったのも、ネットの影響が大きいと思う。
自分のホームページを持つには特別な知識や技術がいるので、ちょっと前までは、個人がネット世界で発信者となるのは面倒なことだった。でも今は、無料で自分の日記や意見を簡単に公開できる。それも覆面をかぶったまま。
道具を持たされれば、使いたくなるのが人情。とにかく何か書いて、発信したくなる。そこでもし書きたいテーマがなくても、与えられたツールで誰かとコミュニケーションを取りたいのなら、下手くそでもつまらなくても、そこに自分の言葉を乗せるのが正解だ。実際、そんなサイトが山ほどある(あ、ここもか⋯⋯)。
しかし、ネット贋作作家はそうではなく、そこに、ウケそうなお上手な他人の言葉を乗せる。となると、目的は<アクセス数を稼ぐこと>なのだろうか。そこに満足感があるの?
それとも。
今回知った贋作作家は、ある著名人(失礼ながらわたしは存じ上げなかったが)の出版物やWEB日記から、文章をそっくりパクったブログを発信していたという。本人になりすましたわけではなく、別の名を名乗ってはいたらしいが、何しろパクったのが「日記」。本家の生活や思考そのものを失敬していたわけだ。
その魅力的な文章や華やかな生活に魅かれ、コメントやトラックバックをした読者も大勢いて、それにはご丁寧にレスも返していたとか。
レスはさすがにパクれないから、本家になりきって書いていたことになる。案外そこに楽しみを見いだしていたのかな。いっとき他人のバックグラウンドを生きることに酔い痴れる、それが喜び?

どちらにしても、みみっちい了見である。
この虚しい感じは、一体何なのだろう。

先日テレビで夕方のニュースを見ていたら、夜行バスで地方から上京してくる若者を追ったドキュメンタリーをやっていた。
九州から来た青年は「歌手になりたいんっす」と夢を熱く語る。ところが。
「どういうジャンルの歌手を目指してるの?」
という記者の質問に、
「アールアンドビー(R&B)、なんか好きっすね」
「へえ、リズムアンドブルースのこと?」
「あ、それの略なんすか?」
「⋯⋯(絶句)」
今回ネット贋作の記事を読んだ時、最初に思い出したのがこの青年のことだった。
ネット贋作作家と共通しているのは、目の前にぶら下がった楽しげなモノを、とりあえず目的としてしまう浅はかさ。

ものがたくさんある。道具もよりどりみどり。選択肢も山ほどある。情報も溢れ返っている。
わたしたちは、そんなモノたちの整理に手いっぱいで、本当の自分の目的などに構っていられない、とても不幸な社会に生きている。こんなぎゅうぎゅう詰めの世の中を自分らしく生き抜くことは、とても難しい。
流され易いわたしなどには、容易なことではない。わたしの本当の目的は何? 時々自分に尋ねてみようっと。
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by etsu_okabe | 2004-05-06 02:59 | 日々のこと/エッセー

同い年

昨日、イラクで人質になっていた2人の記者会見を見ていて、あの18歳の男の子が、全国の18歳に与えた影響のことを思った。
抱く夢を叶えるとっかかりさえまだ見つけられていない少年たちが、はっきりと目的を持ち堂々と大人と渡り合う「同い年」を知った時、受けたショックは大きいのではないかしら。自分は頭がいいと、ちょっと自惚れている子なんかは特に。

わたしにも覚えがあるけれど、同い年の友達しかいない学生時代、同級生に抱くライバル心というのは尋常じゃない。同じ成功でも相手が年上なら拍手できるのに、同い年だと嫉妬に悶え苦しまなきゃならない。
酒鬼薔薇に触発された同い年がたくさんいたのも、やったことの内容はさておき、日本中を大騒ぎさせフィーバーさせたことが「凄かった」から。そんな凄いことをやった「同い年」に、嫉妬や憧れの気持ちが沸くのも不思議じゃない気がする。
あの時の14歳にとって、酒鬼薔薇は永遠に自分たち世代の<ある部分の代表者>になった。意識しないわけにはいかないと思う。

話を戻して。
高校生の頃からNGO活動をし、フリーライターまでやっていた「同い年」が北海道にいたことを、今回の事件で知った全国の18歳たちのことを考える。
今頃、布団をかぶって「チックショー」と身悶えしている子もたくさんいるだろうな。そんな子たちが、布団から出てそのあと、どうするだろうか。
何もしない子が圧倒的に多いだろうけど(酒鬼薔薇に触発されて人殺しをした子は数人しかいなかったように)、何かする子は、それ以上の世代よりも確実に多いと思う。少なくとも、2年後の成人式でバカ丸出しの騒ぎ起こすようなアホは絶対に減ると思うんだけど、さてどうかしら。
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by etsu_okabe | 2004-05-01 15:31 | 日々のこと/エッセー
a0013420_8531.jpg最初に「九龍城」(正しくは<九龍城砦>と言うらしい)を知ったのは、取り壊しが決定したというテレビニュースでだったから、1987年頃のことだ。テレビ画面に大写しにされたまさに「魔窟」という形容がぴったりのオドロオドロしいビル群を見て、うおーっと興奮したのをよく覚えている。
1987年、今から17年前と言えば、日本はバブル絶頂期。わたしは適当な仕事で適当なサラリーをもらえる会社員をしながら、十代から一緒にやってきたバンド仲間の一人と同棲を始め、今よりずーっと贅沢な暮らしをしていた。2LDKに車1台。飲み会だ、ライブだ、パーティーだと、毎晩たくさんのライトを浴びて遊び回っていた。
そんな若者(バカモノ)天国だった頃、わたしが九龍城の映像に興奮したのは、昔からこういう、危ない恐ろしげなモノが大好きだったからだ。アヘン窟、売春宿、地下組織、無免許医、無法地帯⋯⋯九龍城にまつわる言葉たちに妄想は膨らみ、とろけてしまった。

「九龍城探訪」は、取り壊し前、実際にその中をインタビューした本だ。
わくわくして開いてみれば、そこには期待したようなオドロオドロしいものはなく、普通の人たちの、普通の生活の営みが丁寧に紹介されている。写真だけを見れば、今にも路地からナイフが飛び出てきそうだが、そこに暮らす人々の言葉には、古き良き時代への懐古と、取り壊し後の生活への不安の言葉が連なるばかりだ。
ギャングや売春婦や麻薬中毒者が溢れた(「スワロウテイル」のイェン・タウンにあった「煙街」みたいな!)憧れの街は、とっくの昔に消え去っていた。
ここでがっかりするのは、バブルがはじけようがリストラされようが、いまだ安全な場所で貧しいながらも食うに困らぬ生活をしているバカモノのわがままだろう。わかっている。
わかっちゃいるが、やめられない。「悪いもの」への憧れは消えない。平和に飽きているのだ。だから、これからどんどん日本が落ちていくという話に、不安を感じるどころか、わくわくしちゃうわ。
今の日本のいわゆる「負け組」の人たちの心理って、みんなわたしと同じじゃないかしら。だって今この場所には、這い上がる足掛かりが全く見えないんだもの。平和過ぎて。
ドン底に落ちてみれば、はっきりと「敵」が見える気がする。そうしたらきっと、這い上がる道が見つかる。実際に這い上がれるかどうかが問題なのではなくて、這い上がるスタート地点に立てるかどうかが大事なの。
たった今「勝ってる」人には、分からないだろうなあ。
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by etsu_okabe | 2004-04-29 08:06 | 日々のこと/エッセー
結婚も出産も未経験のせいか、人よりも色々なこと(都合の悪いこと)への気づきが一歩も二歩も遅い。そんなわたしも最近ふと「老い」を思い心細さに襲われるようになった。慌てて目先の予定を数え自分を安心させるが、頭の片隅にこびりついた黒い影は拭いきれない。
そんな折、ある人に勧められて堀江敏幸著「雪沼とその周辺」という短編集を読んだ。これまで頭を振って追い払っていた「不安」が一挙に押し寄せてきて、わたしは気持ち良く押し倒されてしまった。

この小説では、「雪沼」という架空(だと思う)の町周辺で起こる7つのできごとが、微妙な関連性を持ちながら、しかし必然性は全く持たずに連なって語られる。そこに切り取られて現れるのは、人生の繁忙期を過ぎたいわゆる初老の人たちだ。
何の激しさも、毒も、熱もない土地に住む彼らの、これといった大きな波風のない生活が淡々と語られていくだけなのに、なぜかあとを引く。大波はないが、ときおりザワッと立つさざ波に、心を揺さぶられる。
「不安」に冒されながら、わたしはイヤな気持ちとイイ気持ちを半々に味わっている。見たくも触れたくもないのに、見られ触れられることには抗いきれない。
そういう感情に迫ってくる小説は初めてだった。もちろん作家が素晴らしいのだろうが、わたしも老成したのかも⋯⋯。

年を重ねることは嫌ではない。20年前のわたしより10年前のわたし、10年前のわたしより今のわたしの方が好きだ。老いを下降線、成長を上昇線だとすれば、心は今でも毎日成長していると思っている。
ところが、身体の方は確実に老いている。お肌の曲がり角は25歳と言うし、体力は20代のある地点から急降下している。考えてみれば、肉体はオギャアと生まれたその瞬間から老い続けているのだ。
生まれた時から「老い」ていく肉体に、死ぬまで「成長」する心を住まわせている。人が生きていくことの苦しみとは、そのジレンマなのかもしれない。わたしを冒した「不安」も、きっとそれだ。

それにしてもこの小説の作者、わたしと同い年だった。本当はこのことが、今わたしを一番揺さぶっている。堀江敏幸さん。10歳くらいサバ読んでるんじゃないの⋯⋯。
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by etsu_okabe | 2004-04-16 21:21 | 日々のこと/エッセー

ア○ス・トモダチ

 しりあがり寿に「ア○ス」という単行本漫画がある。主人公の少女が、自分の脳味噌が欲しがっている「トモダチ」を探すために、素っ裸で世の中を彷徨う話しだ。衝撃。

 わたしは随分昔から、年に何度か新聞の人生相談欄に掲載される「親友ができない悩み」が、気に障ってしょうがなかった。
 投稿者はほぼ女性。「何でも打ち明けられる友達ができなくて寂しい」と、彼女たちは言う。
 彼女たちが「親友」に期待しているもの、それは「100%の依存」だ。自分の悩みや苦しみを全て聞いて理解してくれ、一緒に泣いたり慰めたりしてくれる、それが「親友」。そういう存在を「作りたい」のに作れない、そんな自分の不器用さを怨んだり、自分を見てくれない他人を呪ったりして悩んでいる。
「アホか!」とわたしは呟く。
 友達は、「作る」ものではなく「なる」ものだ(恋人も、然り)。
 出会って、興味を持ち、意見を交換するうちに更に相手のことを知りたくなる。だからまた会ったりメールしたりする。そうやって友達に「なって」いくのだ。
 そうした中で「全て理解し合える」関係を築ける人と出会えるなんて、本当に奇跡に近いことだ。そんな人に出会えたら、その人の人生はほぼ「100点満点」だろう。
 人は誰だって一人。恋人だって親兄弟だって、わたしのことを100%理解してはいない。わたしはいつもそう思っているが、それを悲しいとは思わない。
 寂しいと思うことはある。人は、その寂しさがあるから、共感を求めて、音楽を聴いたり絵を観賞したり、小説を読んだりするのではないだろうか。だとすれば「一人である寂しさ」こそが、人に「感動」という素晴らしいご褒美をくれるのでは? 
 一人はちっとも悪いことじゃない。しりあがり寿さんも、わたしと同じ苛立ちを持っていたのではないかと感じた。

「ア○ス」の少女のトモダチを探す旅の結末は、あまりにも皮肉だ。
 脳を手術され、「普通」の少女になった彼女にはトモダチもできた。だが、彼女は気づく⋯⋯。
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by etsu_okabe | 2004-04-15 04:05 | 日々のこと/エッセー
 モノに名前をつけるのが苦手だ。
どうしてみんな、ペットの名前や作文のタイトルやウェブネームなんかを、あんなに簡単に思いつくのだろう。家具やパソコンにまで名前をつけている人を、わたしは何人も知っている。そういう人は、出会ったばかりの人に、その人が死ぬまで使うようなチャーミングなニックネームをパパッとつけたりする。
 
 そう言えばたった一人、最後まで名前を知らないまま別れてしまった人がいる。
 あれは7歳か8歳頃のことだ。桑畑に囲まれた市営団地の公園に、毎日夕方、大きなコリー犬を連れてくる小学校高学年のお兄さんがいた。犬の名前は「ジェス」。お兄さんはいつもハキハキした声で、「ジェス、伏せっ」とか「ジェス、待てっ」とか言っていた。それで、団地中の小学生はお兄さんのことを「ジェスのお兄ちゃん」と呼ぶようになった。
 ジェスのお兄ちゃんは、時々わたしを呼びにうちのチャイムを鳴らした。「ジェスが君を好きみたいだから」と言って。お兄ちゃんもわたしの名前を知らなかった。
 ジェスのお兄ちゃんはわたしのことが好きだったんだと思う。わたしもジェスのお兄ちゃんが大好きだった。でも、ジェスを間に挟んで遊ぶことしか、わたしたちにはできなかった。
 ある日からぷつりと、お兄ちゃんが団地に来なくなった。子供のわたしはやりたいことが山ほどあって毎日大忙しだったから、名前も住んでいるところも知らない人のことなど、すぐに忘れてしまった。寂しい気持ちに向き合えるほど、心も成熟していなかったのだ。
しばらくして、わたしたちは学校で偶然会った。ジェスのお兄ちゃんは仲間たちとベイゴマで遊んでいた。片手にジェスのつな以外のものを持っているお兄ちゃんを見るのは、初めてだった。
「ジェスのお兄ちゃん!」
呼びかけると、お兄ちゃんは私の所に駈けてきて、ベイゴマを片手でいじりながら「ジェスは死んじゃったんだ。風邪をこじらせて」と言った。
 それが最後だった。まもなくジェスのお兄ちゃんは卒業して、中学校に行ってしまった。わたしは、お兄ちゃんが6年生だったことをその時初めて知った。
 
 ところで、このブログのタイトルにもずいぶん悩んだ。試験段階なので知人にもアドレスは未公開だし、TBも殆どしていない。おそらくまだ誰にも読まれていないだろう。そんなものでも、名前がついただけで、もうわたしだけのモノではないような気がしてくるから不思議だ。
ジェスのお兄ちゃんには最後まで名前がなかった。だからこうして三十年経った今でも、わたしだけのものだ。
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by etsu_okabe | 2004-04-13 03:00 | 日々のこと/エッセー

春ひさぐ、パイオニア

 この世で一番最初のビジネスは売春だった、というのはよく言われることだが、それが事実だと仮定して考えてみる。自分の性を売った最初の女とは、一体どんな女だったのだろうか。
 貨幣が生み出されて、それまで物々交換されてきた作物や道具や労働力に共通の価値が生まれたとき、生き物の基本的な営みとしての「性」を、それらのモノと同じ価値観で見た女。まさにパイオニアだ。
 それまで子孫繁栄のためだけにセックスしていた彼女が、ある日ふと女と男の「性感」の決定的な違い-----女の性の最重要項目は「相手のクオリティ」であるが、男の性の最重要項目は「出すこと」である-----に気づく。そして「こりゃ男に性は売れるぞ!!!」と直感する。果たして、金を握り締めた男たちが、わらわらと彼女の性を買いにくる⋯⋯。
 ひとつの大きな価値観がひっくり返った瞬間ではなかったろうか。
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by etsu_okabe | 2004-04-12 01:27 | 日々のこと/エッセー

矯正

失業して4か月目に突入した。
預金通帳に▲マークが並ぶ今、無駄買いは決して許されない。買い物リストのメモをにぎりしめ、脇目もふらず目的の売場へ直行、これがわたしのショッピング・スタイルだ。
しかしわたしも人の子。「車のハンドルだってアソビがなきゃ事故起こしちゃうでしょ。だめよ、アソビがなきゃ!」(by 何かのCMでおばちゃん得意げに談)。
わたしのアソビは「書店巡り」だ。巡りと言っても、地元吉祥寺ではブックス・ルーエとリブロ(ついこの間までパルコブックセンター)の2店舗だけ。ここには買い物リストなしで寄り、ぶらぶらと数時間を過ごして「出会った」ときには数分迷ってから買う。
今日は珍しく目的を持って巡ったが、欲しかった本は見つからず、「アホの壁 in USA」「少年A矯正2500日全記録」を衝動購入。

「矯正」とは、恐ろしい言葉だ。
正直言って、わたしも14歳の頃には全く情緒など育っていなかった。
友達の兄が死んだので仲間たちと葬式に行ったとき、わたしだけが泣けなかった。肉親を亡くした友達に同情することが、どうしてもできなかったのだ。むしろ、我がことのように泣いている仲間たちの方が不気味に思えた。
体操部の部活中、補助についていた跳馬で後輩が着地に失敗し脱臼したときも、不自然に曲がった彼女の手首を見て他の部員が泣きわめく中で、わたし一人だけが黙ってキョトンと立っていた。あとから「えっちゃんて冷たい」と陰口を叩かれたが、このときも何故みんながパニックを起こしているのか理解できなかった。
今にして思えば、相当気味の悪い少女だったと思う。もし14歳のとき、ひょんなことで犯罪を犯し精神鑑定を受けていたら、恐らく「問題あり」と診断され、矯正教育を受けさせられただろう。そうしたら、ちゃんと今のわたしと同じ大人になれただろうか。それとも、全く別人のわたしが出来上がっていただろうか。

幸いわたしは犯罪に手を染めることなく、その後家族の死や恋愛など様々な経験をして、ちゃんと情緒豊かな大人に育った。本を読んでも映画を観ても、肌が合えば共感できるし、30後半からは些細なことでもすぐに泣く。
しかし、これだけ経済的に逼迫しているのに平気でいるというのは、やはりまだ情緒のどこかに問題があるのかもしれない。
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by etsu_okabe | 2004-04-10 00:16 | 日々のこと/エッセー