小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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a0013420_8531.jpg最初に「九龍城」(正しくは<九龍城砦>と言うらしい)を知ったのは、取り壊しが決定したというテレビニュースでだったから、1987年頃のことだ。テレビ画面に大写しにされたまさに「魔窟」という形容がぴったりのオドロオドロしいビル群を見て、うおーっと興奮したのをよく覚えている。
1987年、今から17年前と言えば、日本はバブル絶頂期。わたしは適当な仕事で適当なサラリーをもらえる会社員をしながら、十代から一緒にやってきたバンド仲間の一人と同棲を始め、今よりずーっと贅沢な暮らしをしていた。2LDKに車1台。飲み会だ、ライブだ、パーティーだと、毎晩たくさんのライトを浴びて遊び回っていた。
そんな若者(バカモノ)天国だった頃、わたしが九龍城の映像に興奮したのは、昔からこういう、危ない恐ろしげなモノが大好きだったからだ。アヘン窟、売春宿、地下組織、無免許医、無法地帯⋯⋯九龍城にまつわる言葉たちに妄想は膨らみ、とろけてしまった。

「九龍城探訪」は、取り壊し前、実際にその中をインタビューした本だ。
わくわくして開いてみれば、そこには期待したようなオドロオドロしいものはなく、普通の人たちの、普通の生活の営みが丁寧に紹介されている。写真だけを見れば、今にも路地からナイフが飛び出てきそうだが、そこに暮らす人々の言葉には、古き良き時代への懐古と、取り壊し後の生活への不安の言葉が連なるばかりだ。
ギャングや売春婦や麻薬中毒者が溢れた(「スワロウテイル」のイェン・タウンにあった「煙街」みたいな!)憧れの街は、とっくの昔に消え去っていた。
ここでがっかりするのは、バブルがはじけようがリストラされようが、いまだ安全な場所で貧しいながらも食うに困らぬ生活をしているバカモノのわがままだろう。わかっている。
わかっちゃいるが、やめられない。「悪いもの」への憧れは消えない。平和に飽きているのだ。だから、これからどんどん日本が落ちていくという話に、不安を感じるどころか、わくわくしちゃうわ。
今の日本のいわゆる「負け組」の人たちの心理って、みんなわたしと同じじゃないかしら。だって今この場所には、這い上がる足掛かりが全く見えないんだもの。平和過ぎて。
ドン底に落ちてみれば、はっきりと「敵」が見える気がする。そうしたらきっと、這い上がる道が見つかる。実際に這い上がれるかどうかが問題なのではなくて、這い上がるスタート地点に立てるかどうかが大事なの。
たった今「勝ってる」人には、分からないだろうなあ。
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by etsu_okabe | 2004-04-29 08:06 | 日々のこと/エッセー
a0013420_222230.jpg4月24日土曜日、ライブハウス横浜B.B.street。
この日最後の出演者である二人が、楽器をセッティングし始めて数分後、チューニングの調子を確かめるように、キヨシがギターを爪弾きだす。そのアルペジオが次第に高まるにつれ、このままあの曲へ繋がる予感に胸が躍る。そして期待通り、耳馴染みのある「暁の空」へ。客席から大きな歓声。空気が震える。んー心憎い演出、考えたな。
半年振りに彼らのステージを見た同行のH氏は、観客動員の増加ぶりとその熱気に「鳥肌っ!」と呟いた。親心にも似た心境は、わたしも同じ。リトルキヨシがまだ一人ぼっちのロケンローラーだった二年半前から、彼の楽曲の素晴らしさに惚れ、おっかけよろしくライブに足を運んできたのだ。観客が数人のライブも知っている。彼はたった三人の観客の前でも、まるで大観衆に向かうような演奏をしていた。彼の「届け、届け!」という想いに打たれ、どれだけ励まされたか分からない。それがいつの間にか、ちゃんとたくさんの人たちに届いていたのだ。感慨ひとしお。
ゲンキのドラムが斬り込むと、一気に二人の<マーブルな世界>へ引き込まれる。昨年二人になってから、ステージは何倍もドラマチックになった。1+1=2ではなく、10にも100にもなっている。
この日のラインナップは「暁の空」「ドクロック」「オレの四角い刑事サングラス」「北風」「最後のバス」「バイバイ」。
ラストの「バイバイ」は、アレンジを大きく変えていてびっくり。リズムの変化が激しく、よりシャープな印象。個人的には以前の方が詩の感情にマッチしているように思うが、他の人はどう感じたのだろう。

それにしても、ステージ前に陣取った二人のオバサン(わたしよりもさらにずーっと年上な感じ)が、きゃーきゃーはしゃいでいたのがウザったかった。酔っているのか何か知らないが、明らかに彼らの演奏を聴いておらず、隣の若い男にしなだれかかって嬌声を上げたり、しっとりとした演奏の時に二人で腕を組んで左右に飛び跳ねたり(いつの時代のどういうノリなんだ!?)、プレイヤーもさぞやりにくかっただろう。ライブの楽しみ方は自由だが、演奏に関係ないところで楽しみたいなら、後ろの方でやってくださいな。
リトルキヨシトミニマム!gnk!のホームページはこちら(制作・管理=わたくし)。
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by etsu_okabe | 2004-04-27 22:11 | 音・詩のこと

What a wonderful world

友人が「What a wonderful world」ばかりを12曲、編集したCDをプレゼントしてくれた。

この歌を聴く時、サッチモがベトナム戦争の慰問先で歌ったというエピソードを思い出す人も多いだろう。昨年大ヒットしたマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」を思い出す人もいるかもしれない。
どちらにしても、戦争や殺戮に対してただ好戦的に「やめろー!」と叫ぶのではなく、ひたすらこの世界の素晴らしさを歌うことで、殺し合うことのバカバカしさを思い起こさせるこの歌のパワーは、多くのミュージシャンを歌わずにはおれない気分にし、そして多くの人たちを勇気づけている。

人類誕生以来、今日まで生き永らえてきた人間という生き物が、本来残酷なのは当たり前だとわたしは思っている。今こうして生きていられるのは、他人を出し抜き、蹴落とし、時には殺して生き抜いてきた祖先たちのおかげだ。テレビに向かって眉をひそめ「なんて酷いことを。戦争反対!」なんて言ってみたところで、このわたしの手だって血まみれなのだ。
そんな人間でも、こんな素晴らしい歌を作り、そして感動できるのはどうしてなのだろう。音楽の力って、一体何なのだろう。

などと柄になく壮大なことを考えていたら、豆腐屋のラッパの音が響いてきた、吉祥寺午前11:40。夕方じゃないのか、普通⋯⋯。
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by etsu_okabe | 2004-04-26 12:01 | 音・詩のこと
1978年の南イタリア。わずか6世帯だけの、豊かとは言えない村。その世間から隔離された陸の孤島で、世界中のどこの子供とも変わらぬ無邪気さと残酷さで夏休みを遊び倒している6人の子供たち。
その中の一人、10歳のミケーレ少年が、時々行く遊び場の廃虚の脇で、トタン板に隠された穴を発見する。恐る恐る覗いたそこには、足枷をはめられた裸の少年が潜んでいた。
深夜、両親たちの会話を盗み聞いたミケーレは、村の大人たちが少年の監禁に関わっていることを知る。

こうして始まる「ぼくは怖くない」
主役が子供たちであることと片田舎が舞台であることで、キングの「スタンド・バイ・ミー」と比べられることがあるようだが、わたしが映画の冒頭を観て思い出したのは、安部公房の「砂の女」だった。村を取り囲む広大な麦畑が、逃げる気を失わせる砂と同じものを象徴しているように思えたのだ。
穴の中の少年フィリッポは、自分は死んだものと思い込んでいて逃げる気力もない。この物語の中で「逃げたい」と切望しているのは、実は村の大人たちの方ではないだろうか。ミケーレの母親が、息子に「あなたはいつかここを出て」と言うシーンが、その全てを表わしているように思う。
貧困生活から逃避するために、豊かな大都会の子供を攫って穴に閉じ込めなければならなかった大人たち。一方、初めて出会う異邦人を助け出すことで、正義のヒーローではなかった父親を、そして麦畑の海原を、越えようとするミケーレ。どちらが、本当にそこから脱出できたのか。
これから見る人のためにその答えは書かないが、ラストの衝撃を「後味が悪い」と評する人もいるので、これだけは書いておく。わたしはあれを無情だとは思わない。物語の作者は最後に、主人公ミケーレに未来と希望を残していると思う。そうでなければ、外の世界の象徴であるフィリッポが、麦畑から天使のように現われるシーンの意味がないと思うからだ。
と書きながら、原作が気になってきた。小説であれば、残酷な結末も「あり」だ。いやむしろ、小説家は残酷に終らせたくなるのではないか。映画監督はその悲惨なラストを、原作を変えたとは思わせない手法=観客に委ねるという方法で、ポジティブな余韻を演出したのではないか⋯⋯んー、あとで原作を読もう。

さて話は変わるが、映画に二人の「オトコ」が出てくれば問わずにはおれない。それがたとえ10歳の少年であっても。
真っ黒に日焼けした肌、ウェーブのかかった黒髪、濃く長い睫毛、精悍な瞳。ミケーレ役のジュゼッペ君。
真っ白な肌、サラサラの金髪、うつろな瞳、折れそうに華奢な手足。フィリッポ役のマッティーア君。

さあ、どっち!?

⋯⋯わたしは断然ジュゼッペ君です。
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by etsu_okabe | 2004-04-23 23:10 | 映画/芝居のこと
結婚も出産も未経験のせいか、人よりも色々なこと(都合の悪いこと)への気づきが一歩も二歩も遅い。そんなわたしも最近ふと「老い」を思い心細さに襲われるようになった。慌てて目先の予定を数え自分を安心させるが、頭の片隅にこびりついた黒い影は拭いきれない。
そんな折、ある人に勧められて堀江敏幸著「雪沼とその周辺」という短編集を読んだ。これまで頭を振って追い払っていた「不安」が一挙に押し寄せてきて、わたしは気持ち良く押し倒されてしまった。

この小説では、「雪沼」という架空(だと思う)の町周辺で起こる7つのできごとが、微妙な関連性を持ちながら、しかし必然性は全く持たずに連なって語られる。そこに切り取られて現れるのは、人生の繁忙期を過ぎたいわゆる初老の人たちだ。
何の激しさも、毒も、熱もない土地に住む彼らの、これといった大きな波風のない生活が淡々と語られていくだけなのに、なぜかあとを引く。大波はないが、ときおりザワッと立つさざ波に、心を揺さぶられる。
「不安」に冒されながら、わたしはイヤな気持ちとイイ気持ちを半々に味わっている。見たくも触れたくもないのに、見られ触れられることには抗いきれない。
そういう感情に迫ってくる小説は初めてだった。もちろん作家が素晴らしいのだろうが、わたしも老成したのかも⋯⋯。

年を重ねることは嫌ではない。20年前のわたしより10年前のわたし、10年前のわたしより今のわたしの方が好きだ。老いを下降線、成長を上昇線だとすれば、心は今でも毎日成長していると思っている。
ところが、身体の方は確実に老いている。お肌の曲がり角は25歳と言うし、体力は20代のある地点から急降下している。考えてみれば、肉体はオギャアと生まれたその瞬間から老い続けているのだ。
生まれた時から「老い」ていく肉体に、死ぬまで「成長」する心を住まわせている。人が生きていくことの苦しみとは、そのジレンマなのかもしれない。わたしを冒した「不安」も、きっとそれだ。

それにしてもこの小説の作者、わたしと同い年だった。本当はこのことが、今わたしを一番揺さぶっている。堀江敏幸さん。10歳くらいサバ読んでるんじゃないの⋯⋯。
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by etsu_okabe | 2004-04-16 21:21 | 日々のこと/エッセー

ア○ス・トモダチ

 しりあがり寿に「ア○ス」という単行本漫画がある。主人公の少女が、自分の脳味噌が欲しがっている「トモダチ」を探すために、素っ裸で世の中を彷徨う話しだ。衝撃。

 わたしは随分昔から、年に何度か新聞の人生相談欄に掲載される「親友ができない悩み」が、気に障ってしょうがなかった。
 投稿者はほぼ女性。「何でも打ち明けられる友達ができなくて寂しい」と、彼女たちは言う。
 彼女たちが「親友」に期待しているもの、それは「100%の依存」だ。自分の悩みや苦しみを全て聞いて理解してくれ、一緒に泣いたり慰めたりしてくれる、それが「親友」。そういう存在を「作りたい」のに作れない、そんな自分の不器用さを怨んだり、自分を見てくれない他人を呪ったりして悩んでいる。
「アホか!」とわたしは呟く。
 友達は、「作る」ものではなく「なる」ものだ(恋人も、然り)。
 出会って、興味を持ち、意見を交換するうちに更に相手のことを知りたくなる。だからまた会ったりメールしたりする。そうやって友達に「なって」いくのだ。
 そうした中で「全て理解し合える」関係を築ける人と出会えるなんて、本当に奇跡に近いことだ。そんな人に出会えたら、その人の人生はほぼ「100点満点」だろう。
 人は誰だって一人。恋人だって親兄弟だって、わたしのことを100%理解してはいない。わたしはいつもそう思っているが、それを悲しいとは思わない。
 寂しいと思うことはある。人は、その寂しさがあるから、共感を求めて、音楽を聴いたり絵を観賞したり、小説を読んだりするのではないだろうか。だとすれば「一人である寂しさ」こそが、人に「感動」という素晴らしいご褒美をくれるのでは? 
 一人はちっとも悪いことじゃない。しりあがり寿さんも、わたしと同じ苛立ちを持っていたのではないかと感じた。

「ア○ス」の少女のトモダチを探す旅の結末は、あまりにも皮肉だ。
 脳を手術され、「普通」の少女になった彼女にはトモダチもできた。だが、彼女は気づく⋯⋯。
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by etsu_okabe | 2004-04-15 04:05 | 日々のこと/エッセー
 モノに名前をつけるのが苦手だ。
どうしてみんな、ペットの名前や作文のタイトルやウェブネームなんかを、あんなに簡単に思いつくのだろう。家具やパソコンにまで名前をつけている人を、わたしは何人も知っている。そういう人は、出会ったばかりの人に、その人が死ぬまで使うようなチャーミングなニックネームをパパッとつけたりする。
 
 そう言えばたった一人、最後まで名前を知らないまま別れてしまった人がいる。
 あれは7歳か8歳頃のことだ。桑畑に囲まれた市営団地の公園に、毎日夕方、大きなコリー犬を連れてくる小学校高学年のお兄さんがいた。犬の名前は「ジェス」。お兄さんはいつもハキハキした声で、「ジェス、伏せっ」とか「ジェス、待てっ」とか言っていた。それで、団地中の小学生はお兄さんのことを「ジェスのお兄ちゃん」と呼ぶようになった。
 ジェスのお兄ちゃんは、時々わたしを呼びにうちのチャイムを鳴らした。「ジェスが君を好きみたいだから」と言って。お兄ちゃんもわたしの名前を知らなかった。
 ジェスのお兄ちゃんはわたしのことが好きだったんだと思う。わたしもジェスのお兄ちゃんが大好きだった。でも、ジェスを間に挟んで遊ぶことしか、わたしたちにはできなかった。
 ある日からぷつりと、お兄ちゃんが団地に来なくなった。子供のわたしはやりたいことが山ほどあって毎日大忙しだったから、名前も住んでいるところも知らない人のことなど、すぐに忘れてしまった。寂しい気持ちに向き合えるほど、心も成熟していなかったのだ。
しばらくして、わたしたちは学校で偶然会った。ジェスのお兄ちゃんは仲間たちとベイゴマで遊んでいた。片手にジェスのつな以外のものを持っているお兄ちゃんを見るのは、初めてだった。
「ジェスのお兄ちゃん!」
呼びかけると、お兄ちゃんは私の所に駈けてきて、ベイゴマを片手でいじりながら「ジェスは死んじゃったんだ。風邪をこじらせて」と言った。
 それが最後だった。まもなくジェスのお兄ちゃんは卒業して、中学校に行ってしまった。わたしは、お兄ちゃんが6年生だったことをその時初めて知った。
 
 ところで、このブログのタイトルにもずいぶん悩んだ。試験段階なので知人にもアドレスは未公開だし、TBも殆どしていない。おそらくまだ誰にも読まれていないだろう。そんなものでも、名前がついただけで、もうわたしだけのモノではないような気がしてくるから不思議だ。
ジェスのお兄ちゃんには最後まで名前がなかった。だからこうして三十年経った今でも、わたしだけのものだ。
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by etsu_okabe | 2004-04-13 03:00 | 日々のこと/エッセー

春ひさぐ、パイオニア

 この世で一番最初のビジネスは売春だった、というのはよく言われることだが、それが事実だと仮定して考えてみる。自分の性を売った最初の女とは、一体どんな女だったのだろうか。
 貨幣が生み出されて、それまで物々交換されてきた作物や道具や労働力に共通の価値が生まれたとき、生き物の基本的な営みとしての「性」を、それらのモノと同じ価値観で見た女。まさにパイオニアだ。
 それまで子孫繁栄のためだけにセックスしていた彼女が、ある日ふと女と男の「性感」の決定的な違い-----女の性の最重要項目は「相手のクオリティ」であるが、男の性の最重要項目は「出すこと」である-----に気づく。そして「こりゃ男に性は売れるぞ!!!」と直感する。果たして、金を握り締めた男たちが、わらわらと彼女の性を買いにくる⋯⋯。
 ひとつの大きな価値観がひっくり返った瞬間ではなかったろうか。
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by etsu_okabe | 2004-04-12 01:27 | 日々のこと/エッセー

歪んだ性愛・ピアニスト

 2002年、衝撃的な歪んだ性を描いたとして話題になった映画「ピアニスト」について書かれたblog記事を見つけたので、わたしの解釈を書いてみたい。

 舞台はウィーン。
 40歳を過ぎても、母親の支配下で生きるピアノ教師エリカ。支配と被支配という関係で愛情を交わし合う母娘の生活の中で、制御され過ぎたエリカの性欲は歪められている。
 ポルノショップの個室でビデオを観ながら、前の客が捨てたティッシュを拾い、こびりついた精液の匂いを貪るエリカ。
 ドライブイン・シアターで、カップルのSEXを覗きながら放尿するエリカ。
 夕食前、バスルームで自分の性器に剃刀をあてるエリカ。
 そんな暗闇の顔とは裏腹の、知的でクールな表の顔の彼女に、若くてハンサムな青年、ワルターが恋をする。
 彼の積極的で健康な愛情に対し、初めて<男性>と接するにも関わらず、エリカは全く物怖じせずに向き合う。自分の<性>を、相手にきっちり示すのだ。
エリカの性。それは、暴力を受けることでしか昇華できない欲望である。

 わたしはエリカに共感する。その性欲が歪んでいるかどうかなんて、問題じゃない。
 表現は極端ではあるけれど、エリカが痛々しいほどまっすぐに対峙した「性愛を正直に交わし合いたい」という欲求は、女性にとって普遍的な恋愛のテーマのひとつだと思うのだ。
 女は、長年強要されてきた「貞節」という神話のせいで、正直な欲望を押さえつけられてきた。これだけフリーな時代になってもなお、セックスは男側の視点から語られることが多い。そこに見えない主導権がある。女たちは、それをふりほどく術を模索し続けながら、ベッドと自分の境界線で鬱憤をしまいこみ続けている。
 エリカは、「よし、この男と!」と決めた途端、そんな<縛り>はさっさと引きちぎった。そこにわたしは共感するのだ。
 恋愛は闘いだ。攻撃と防御、これが全て(お互いが攻撃も防御もしなくなった時、二人には「倦怠」という敵が現れる。そうなる前にいやでも子孫を残すよう、人は結婚制度を考え出したに違いない)。
 防御、守り上手の恋愛は、失敗しても起き上がる為の命綱は張っているので、立ち直りが早い。その代わり、深炒りの恋愛はできない。
 大人になればなるほど、人は防御が上手くなる。しかし、エリカは全く自分を守らない。海のモノとも山のモノともわからない若造の前に、自分の何もかもを投げ出してしまう。
それがあまりにピュアで、滑稽なほどで、わたしは今でも思い出すと、ぐっときてしまう。わたしの中にも、ああいうバカなくらい正直なところがある。その正直さを受け取れないアホに恋してしまった時の、どうしようもなくミジメな感覚を思い出して、泣けてしまうのだ。
 ワルターも、やはりただのアホな男だった。
 エリカが最後にとった行動(これからDVDを観る人のために書きません)は、相手がただのアホだったと知ったが故の、彼女の自分に対する制裁だ。わたしはそう思う。

 防御でしか恋をしていない女は、これを観て「性」と「生」を考えてみたらいかがだろうか。
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by etsu_okabe | 2004-04-11 06:01 | 映画/芝居のこと

まずは自己紹介

名前:岡部えつ
出身地:大阪生まれ前橋育ちの上州女
現在は東京都武蔵野市

第三回 幽・怪談文学賞の短篇部門に『枯骨の恋』で大賞受賞。
2009年6月 短篇集『枯骨の恋』出版(メディアファクトリー)でデビュー。

小説創作は安原顯氏、岡本敬三氏に師事。

フリーなジャズの方たちと絡んで、朗読なども。→業(ごう)朗読演奏会

好きなもの:日本酒(純米)、ワイン(赤)、シングルモルト、ギムレット、下町のナポレオンいいちこ。
心がけていること:身の丈で生きる。
口ぐせ:100年経ったらみんな土の中。
性格:寂しがり屋の一人好き。




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by etsu_okabe | 2004-04-10 18:13 | 岡部えつプロフィール