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小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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 祭りに出くわすと、胸が熱くなってこみあげてくるものがある。その感情の昂りは、大規模な祭りでも、うち(吉祥寺)の近所の小さな祭りでも、全く変わらない。神輿を担ぐ男衆のかけ声と、祭り囃子。とくに太鼓の音にはぐっときてしまう。
 この魂を揺さぶられる感覚は、学習したものとは思えない。身体の細胞が、DNAが、自然に反応している感じだ。祭り囃子の熱狂の中、目を瞑ると、なんだか太古の昔を思い出せそうな気さえしてくるのだ。
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 大昔、きっとわたしたちの毎日は、土を睨んで明け暮れるような生活だっただろう。飢えに怯え、病に怯え、権力に怯えながらの厳しい暮らし。
 しかし年に一度だけ、そんな苦しい時を忘れて狂える晩がある。粗末な着物を脱ぎ、華美に身を飾り、酒や毒キノコを回し飲み、酩酊の先の神に触れようと、踊り、歌い、乱れる、ハレの夜だ。
 焚き木の揺らめく炎に浮かび上がる、半裸の男たちの盛り上がった筋肉。汗に濡れた黒髪をはりつかせた、女たちの桃色のうなじ。興奮の先にあるのは、それこそ燃え上がるようなセックスだったに違いない。
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 そうか、わたしが祭りに興奮するのは、こういう無意識下の発情によるものだったか。困ったものだ。



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 現代、わたしたちは毎日がいつでもお祭り騒ぎだ。
 退屈な仕事をちくちくと8時間こなしたあと、とくにフラストレーションが溜まっているわけじゃなくても、上着を脱いで繁華街へ繰り出せば、そこには酒があり、大音量の音楽があり、どいつもこいつも踊り狂って無理矢理何かを発散している。ぐったりと家に辿りつけば、エアコン、テレビ、パソコンと、スイッチを入れてまたお祭りだ。
 なんだか、発情しにくい。そりゃあセックス・レスにもなるってもんだ。


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 わたしの2004年の夏は、高円寺の阿波踊りで締めくくり。大好きな夏の、おしまい。

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by etsu_okabe | 2004-08-29 17:13 | 日々のこと/エッセー
 敬愛する故中島らも氏の「微笑家族」から、痺れる一節を。

* * *

「冷たいこと言うなよ、友だちだろ」というようなことを言う人は、たいていただの「知り合い」である。
 ピンチのときには絶対電話してこないのが「友だち」で、すぐに助けを求めてくるのが「知り合い」。
 こういう目で見ると、思っているより「友だち」は少ないことに気づく。
(「微少家族」のコラム「自炊ズ・カマボコ」より抜粋)

* * *

 非常に乱暴に「友情」と名付けた要求をつきつけてくる人がいる。そんなヤツはもちろん「友だち」ではないはずだ。ところが、人はそのニセ友に簡単に振り回されてしまう。
 わたしもこれまでそうした「友情」に丸め込まれて、法外に高級な下着を買ったり、生命保険に入ったり、出たくもないパーティーに参加したりと、大変な時間と財産の無駄使いをしてきた。思い出すだけで、悲しい気持ちになる。
 もちろん、わたしにそんな浪費をさせた人たちとは、今では賀状のやりとりさえない。

 以前にも書いたが、わたしは「友だち」とは「作る」ものではなく「なる」ものだと思っている。知り合った二人がお互いに惹かれ、相手を知ろうとし、自分を知って欲しいと願い、様々なものを少しづつ分かち合って「なっていく」。それが、友だち。
「あたしたち、友だちだよね」
 などと確認するものでもないし、「友だちだから」という理由で頼り合うものでもない。

「こいつのためなら、自分の時間を使って何かをしてあげたい」
 そう思えるのが、本物の友だち。そんな宝もののような友だちが、わたしにはいる。
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by etsu_okabe | 2004-08-24 07:40 | 日々のこと/エッセー

ガンバレ!

 何をするときにも、「別にマジでやってるわけじゃないから」という態度で取り組む人を、わたしは好きになれない。
「マジでやってるわけじゃないから、失敗しても、恥ずかしくも悔しくもないのさ」といった逃げ道を最初から作り、隣で真剣に取り組んでいる人を「お前、こんなことマジにやってんの? 偉いよな、ははは」と見下すことで、自分が優位に立っているつもりでいる。実にカッコ悪い、と思う。

 年をとればとるほど「未熟ゆえ」という言い訳が使えなくなるから、どんどん負けにくくなる。負けそうになったら、何かで体裁を取り繕わなければいたたまれない状況だって、たくさんある。大人になるとは、そういうことだ。
 そんな中で、少しでも傷を浅くするために『最初から真剣に取り組まない』というクッションを抱く。そんな人が、周りにどんどん増えていく。自分の真剣さを、小馬鹿にされることも増えていく。
 くじけそうだ。

 こんなときだから、全身全霊100%「マジで取り組む」人たちの祭典、オリンピックに胸が熱くなるのかもしれない。
 ガンバレ、ガンバレ。
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by etsu_okabe | 2004-08-23 01:24 | 日々のこと/エッセー

夏の豚

a0013420_14323636.jpg 友人から“豚蚊遣り”をもらった。
 四年前、インド旅行のために購入して以来すっかり蚊取線香派になっていたわたしだが、これまでは、皿にアルミの線香立てを置いて使ってきた。

 昭和39年生れのわたしが子供の頃は、夏になればどこの家庭でも蚊取線香を焚いていた。窓を開け放ち、扇風機を回し、母親が切り分けてくれた西瓜にかぶりつく。
「夜中おしっこにいきたくなっちゃうから、1つにしなさい」
 などと言われながら、夏休みで遊びに来ている従兄の真似をして、縁側から種を吹き飛ばす。
「あ、種食べちゃった!」
「やーい。えっちゃんのお腹から芽が出て鼻の穴から西瓜が出てくるぞ〜」
 嘘だと分かっているのに、からかわれたことが悲しくて、半ベソをかく。
 玄関からは鈴虫の声。
「ほら、これを鈴虫にあげておいで」
 父親になだめられ、食べ終わった西瓜の皮を下駄箱の上のケージに入れてやる頃には、機嫌は元通り。
「さあ、もう寝なさい」
 川の字に敷かれた布団の上を、妹と従兄とで転げ回って叱られる。
「いい加減にしなさい。明日キャンプに連れていきませんよ」
 母親が蚊取線香の入った丸いケースを持って来て、窓際に置く。
「明日さあ、テントで寝るんだよ」
「湖の中で西瓜を冷やすんだって」
「一緒にカレー作ろうね」
 子供の頃、夏休みは永遠に続くかと思われるほど、長い、夢のような日々だった。

 その頃うちでは、商品に付属しているアルミ缶の容器で、蚊取線香を焚いていた。友達の家やテレビのホームドラマに出てくる“陶器の豚”は、憧れの家庭用品だった。
 今年の夏、友人が蚊取線香派になった折り、「やっぱ“豚”だよねぇ」と、ため息つきあったのが発端で、今こうして憧れの豚が我が家に鎮座している。
 早速、金鳥渦巻を豚のお尻から入れ、中の針金に刺してライターで火をともす。すいっと立ち上った煙りが、豚の目から口(鼻なのか?)から、ゆら〜りゆらりと流れ出てくる(ラブリー!)。懐かしい香りが部屋中に立ち篭め、開け放った窓からは蝉の声。
 西瓜の代わりに右手に缶ビール、左手に豚蚊遣りを持ち、ベランダに出る。通りから豆腐屋のラッパが近づいてきた。
<なんだ、随分時間が経って時代は変わったと思っていたけれど、何も変わらないじゃないか>
 年を重ねるごとに大好きな夏が短い季節になることが寂しくて、こんなことを呟いてみる、夏休みの午後。
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by etsu_okabe | 2004-08-11 14:35 | 日々のこと/エッセー

羨む心。妬む気持ち。

 わたしの友人に、離婚したばかりの頃「悪意がないのは分かっていても、ただ夫婦円満で幸せだということを見せつけられるだけでキツいから、今は既婚者には会わない!」ときっぱり宣言して、本当にしばらくの間独身者(わたしですわ)としかつきあわなかった人がいる。
 わたしは彼女を、素直なイイヤツだと思った。

 自分の現状に100点満点で満足している人などいない。周りは自分の持たないものを持つ人で溢れかえっている。そんな中には、自分の貧弱な持ち物を必要以上に大きく見せたり、とっておきの持ち物をひけらかしたりしなければ、立っていられない人もいるだろう。前回の記事でわたしが「辟易している」と書いたのは、そういう人たちのことだ。
「あんたはホントに人を羨まないねぇ」
 と言われることがあるが、それは違う。わたしも人を羨むし、嫉妬に悶え苦しむことだってある。ただ、羨ましいと思う対象物の基準が「多数派」と若干ずれているので、みんなが羨むときに一緒に羨むことが少ないだけのことだ。
 そんなわたしでも、わざわざ人を羨ましがらせようという腹にはウンザリするのだから、普段から嫉妬深い人にはたまったものではないだろう。
「今は既婚者とは会わない!」と宣言したわたしの友人は、まさにそういうタイプの人だった。そこで彼女はヤセ我慢をせず「幸福な既婚者には会わない」と宣言した。ネガティブな部分を公開するというリスクと引き換えに、自ら苦しみを回避したわけだ。そんな彼女に「あんた、ヒネクレてるよ」などと言う人はいなかった。
 彼女の行動は、勇気のいることだったと思う。少なくともわたしは、自分が嫉妬に苦しんでいるところなど人には見せられない。そちらの方がヒネクレているのかもしれないな。

 さて。人を羨み妬むことは、いけないことだろうか。
 わたしは、羨望や嫉妬は、人を好きになってしまうことと同じくらい<他人から見れば見苦しいけれどもどうにも止められない感情>だと思う。
「いや、あいつにだってしんどいことはあるはずさ」と哀れみを嫉妬心の上に被せたり、「あいつはそれだけの努力をしたんだ。それに較べてわたしはどうなのさ?」と嫉妬心をひっぱたいたり、そうやって自分を懸命に励ましてなんとか生き延びる、それが人というものではないだろうか。

 羨望・嫉妬に苛まれるとき、自分が一体<何を>羨んでいるのかを、よーく考えてみる。どんどん突き詰めて掘り下げていくと、突き当たった根っこが吸い上げていた養分が<わたし>だったりするから面白い。
 この辺も、わたしが羨望や嫉妬が恋愛感情と同じだと感じるところだ。
 出家したくなるほどどうにもならなくなるまでは、羨望、嫉妬、恋、これらやっかいなモノたちと、上手につきあっていかなくちゃ。
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by etsu_okabe | 2004-08-04 07:58 | 日々のこと/エッセー

反復夢

 昔から、繰り返しみている悪夢がある。それは、「電話がかけられない」夢。
 急いでいるのに、どうしても途中で番号を間違えてしまう。ものすごく焦りながら、べったりと汗の滲んだ手で受話器を握りしめ、何十回とダイヤルを繰り返すという、イヤな夢だ。
 見始めた頃は「ダイヤル式電話器」だった。今度こそはとジーコジーコ順調に回すのだが、最後の数字を間違える。かけ直す。ジーコジーコ、また間違える。公衆電話だったこともある。その後プッシュボタン式になった。ピッポッパッポ、ピッ、ああっ間違えた! ピッポ、ピッ、ああまたっ。
 そしてとうとう先日、携帯電話の夢を見た(電話嫌いなので、携帯を持ったのはわずか3年前なのです)。舐めるようにボタンを凝視し親指を動かすが、どうしても押し間違う。あと1つ、というところで隣のボタンを押してしまう。何度も繰り返すうち、胃がキリキリ痛みだす。半べそをかきながら「もう、いやーっ」と叫び出しそうになったところで、目が醒める。全身、イヤな汗にぐっしょりとまみれている。

 夢判断的には、おそらく「電話はコミュニケーションの象徴。あなたは今うまく人とコミュニケーションがとれないことで、ストレスを受けています」とか、「あなたは今誰かと繋がりたいと、強く欲しています」ってなところだろう。
 以前にも書いたように、わたしは自分が誰かに100%理解されるとはさらさら思っていないし、そんな期待もしていない。そう考えるようになってからは、強く自己アピールすることもなくなった。勘違いや誤解をされていると分かっても、ムキになって訂正したり言い訳したりもしない。
 もしかしたら、そのことが知らないうちに自分を苦しめているのだろうか。

 最近、激しい「自慢話満載の自己アピール攻撃」に辟易させられることが続いている。
 鼻の穴を膨らませた得意顔に「羨ましいでしょ」「感心しなさいよ」と、でかでかと書きながら披露される自慢話。しかしそのどれもこれもが、わたしにとって魅力のないものなので、聞いていてつらい。「全く魅力に感じないもの」に対して「羨みなさい」と強制されることは、本当にしんどい。

 頭のいい人は、その価値の分からない人にいくら自慢をしても何も生まれない、ということを知っている。だから、そんな下らない自慢話などしないものだ。
 頭のよくない人は、その価値を分からぬ相手に「分かれ! そしてわたしを羨め!」と強制してきたり、その価値を分からないということを「こんなことも知らないの?」とバカにしてくる。まことに迷惑。

 今わたしが辟易しているのは、まさにその「頭の悪い人の自慢話」だ。

 キヨシローとジャムったことがあるとか、小笠原にいつでも泊めてもらえる家があるとか、裏社会の闇ルートを知っているとか、もうすぐメジャーデビューするとか、クジラに触ったことがあるとか、寺山修司と飲んだことがあるとか、そういうことなら身悶えするほど羨ましいのだが、『何とかいう有名人と知り合いである』とか『都心の一等地に持ち家がある』とか『大企業に勤めている』とか『下着は高級フランス製しか身につけない』とか『友達はみんな一流』とかいうことに、わたしはちっとも感心できない。
「それ、興味がないから褒めてあげられないよ」と態度で示しているつもりなのだが、どうも通じていない。自慢話はまだまだ続きそうだ。

 今夜もまた、あの夢を見そう。た〜すけて〜。
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by etsu_okabe | 2004-08-01 18:21 | 日々のこと/エッセー