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小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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天使を買う

 中島らものエッセイに、「その日の天使」というのがある。
 人の一日には必ず一人の天使がついていて、それはその日によって姿を変えて現れる。心身ともに好調なときには見えにくいが、絶望的に落ち込んでいるとき、人はこの天使が一日に一人だけ、さしつかわされていることに気づく、というのだ。

<こんなことがないだろうか。暗い気持ちになって、冗談にでも“今、自殺したら”などと考えているときに、とんでもない知人から電話がかかってくる、あるいは、ふと開いた画集か何かの一葉の絵によって救われるようなことが。それは、その日の天使なのである>(中島らも著「恋は底ぢから」より)

 しかし、終日家に引きこもって本も読まずテレビもつけずネットも繋がずに、ひたすらパソコンに向かって文字を打ち込んでいるような小雨降る休日には、天使も呆れて現れてはくれないようだ。
 落ち込んでいるとまではいかなくても、行き詰まって暗い気分になることはある。こんなときこそ現れて欲しいのに。

 ひと休みして、友人に録ってもらった『タカダワタル的』のサントラを聴く。高田渡は今年のマイ・ブーム。吉祥寺音楽祭でその歌を聴き、ぶつくさ語りを聞いてからというもの、このギョロ目のおじさんに痺れっぱなしなのだ。
 サントラの中でも、聴く度に泣けてしまうのが「ブラザー軒」という歌。ライブで聴いたときには涙を堪えるのに苦労した。優しく美しいメロディーもだが、菅原克己という人の詩がイイ。

 七夕の日。「ぼく」が硝子暖簾をくぐってブラザー軒に入ると、あとから死んだ親父と妹が入ってきて、隣に座る。色褪せたメリンスの着物を着ておできをつけた妹が、うまそうに氷水を食べる。それを満足そうに見つめる親父。「ぼく」は彼らをじっと見つめている。しかし彼らには「ぼく」が見えない。「ぼく」の声も聞こえない。

 淡々と歌われる異次元の家族と「ぼく」とのささやかな交流の物語は、特に、優しい家族を失ったことのある人には染み入ってくるはずだ。
 わたしもどうしても、死んだ父と幼い自分の姿が思い浮かんで、胸がきゅうんと締めつけられてしまう。悲しいとか寂しいとかではなく、それはとても甘やかな懐かしさという感じ。

 ふと詩人が気になって、起こしっぱなしのパソコンをネットに繋いで調べてみると、昨年「菅原克己全詩集」が出版されていることがわかった。アマゾンでは在庫切れだが、bk-1なら手に入る。3,990円。今のわたしにはちと痛い。

「いや、これは今日来なかった天使の代わりだわ!」

 というわけで、買物カゴをクリック!
 来なければ、自分で手に入れちゃうという寸法である。「今出ようと思ってたのに〜」という本物の天使のご機嫌を損ねなければいいけど......。
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by etsu_okabe | 2004-09-26 03:36 | 音・詩のこと
 よく「言葉の暴力」と言うが、ネットの世界ではこれが非常にやっかいだ。もう何度かこのブログにも書いたことだが、「匿名性」というネットの特徴が、この暴力を増大させてしまう。
 匿名は、おそらく元々は書く側を守る防護服だったはずだ。それを武器に変えて攻撃してくる人たちが、少なからず、いる。
 わたしも一度だけ、挑発的なコメントを受けたことがある。ムカムカッと来る内容だったし、筆には多少自信があるので言い返したい気持ちも山々だったが、ぐっと堪えて無視をした。すると拍子抜けするほどあっさり、相手は消えてしまった。
 そこで初めて、「ああ、このムカつくコメントも、この人にとってはコミュニケーションだったんだな」ということが分かった。

 中学2年のとき、担任の先生の方針でクラスをグループ分けし、掃除や学級新聞などの活動をそのグループの共同責任で行うことになった。
 わたしのグループに、K君という問題児がいた。何をするにも規範を破るし、突拍子もない言動をとって他のメンバーを困惑させる。毎日回している交換日誌も、彼に渡ると何日もストップしてしまう。とにかく彼一人のために、わたしたちのグループは何をするにも順調にことが運ばない。本当に困った存在だった。
 わたしは当時、今のわたしならデコピンしてやりたくなるほどのイヤラシイ模範的イイコちゃん(げ〜)だったので、何度も彼にマジ「正論」で挑み、そのたび支離滅裂な言葉や乱暴な態度でうやむやにされ、最後にはこっちがヒステリーを起こして収拾がつかなくなる、ということを繰り返した。担任に「K君をグループから外して欲しい」と懇願したような記憶もある。

 自分のブログがあらしコメントの被害にあっている人で、当時のわたしのようなパターンにはまっている人はいないだろうか?
 ブロガーは筆の立つ人ばかりだから、言葉で攻撃されたらそれは反撃したくもなるだろう。でも、わたしはそれには反対だ。

 のちにわたしは、K君が2年生のとき両親が離婚し、大変な環境に置かれていたということを知った。
 思い返しててみれば、彼は1年生のときも特に困った子じゃなかったし、3年になった頃にももう乱暴などしなくなっていた。2年生のほんの一時期だけ、どうしようもなく鬱屈した状態だったのだ。

 事情があるにしろないにしろ、ひねくれた心に「正論」は通じない(ひねくれてなくても、わたしは正論というやつは好きじゃないけれども)。
 あらし行為をする人は、相手に不快な思いをさせ、その反応で自分の存在をアピールして満足を得ることが目的なのだから、一番効くパンチは「無視」だ。冷たい人間にならなきゃいけないのはしんどいが、それしかない。
 エキサイトブログの「鍵コメント」は、開設者しか見ることができない。そこに書かれた罵詈雑言を誰とも共有できないのは辛いことだが、逆に言えば、自分一人が引き受けて無視すれば、他の人には何の迷惑もかからない。へへんと笑って鼻くそでもつけてやればいい。

 ブログ運営の責任は、開設しているその人にある。記事を楽しみにしてくれたり、中での交流を大事にしてくれる人たちを、開設者は守らなければいけないと、わたしは思うのだ。
 簡単に「被害者」になってしまうのは、悔しいし、惜しい。

※以下のブログにトラックバックしています。
山崎絵日和
自分しか見えへん
エキサイトブログ向上委員会
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by etsu_okabe | 2004-09-24 09:59 | 日々のこと/エッセー

「ありがとう」

 久し振りに「ありがとう」を言えない人に会った。恐らくわたしとそう歳の変わらない、いい大人の男性だ。
 誰かに何かをしてもらったり、何かを頼んだり、モノをもらったりと、ごく自然に「ありがとう」が出てくる場面で彼が無言を貫くので、そこには座りの悪い妙な雰囲気が生じる。そんな、言わないでいる方が気まずかろうという場面に何度も立ち会わされ、横にいるわたしの方がハラハラ、ムカムカしている始末だ。

 感謝されることで喜びを得るというのは、とても大切な経験だと思う。
 わたしの両親は、大袈裟なくらい、何をしても喜んでくれる人たちだった。
 父の誕生日、忙しくてプレゼントを用意できなかったとき、小学校低学年だった妹が小銭を握りしめて近所の煙草屋で100円ライターを買ってきた。妹よりちょっと大人だったわたしは、心の中で「えー、そんなもの」と思っていたが、仕事から帰ってきた父は妹が一所懸命包んだ広告チラシの包装を解き、ライターを認めるなり「うわー嬉しいなあ! 丁度ライターが切れちゃったところだったんだよ、よく分かったね!」と大喜びをした。母も隣で「良かったわねぇ、パパ」と喜んでいる。妹は満面の笑みで、とても嬉しそうだった。
 父はもちろん100円ライターを喜んだのではない。妹の「気持ち」に感激して喜び、感謝したのだ。そして妹は、自分のしたことが父親を喜ばせたことで、自分も幸せになった。

 こんな環境で育ったわたしだから、初めて恋人に料理を作ってあげたとき、開口一番「これ、俺の口に合わないわ」と言われてショックで半狂乱になり、料理を全て流しにブチこんでしまった。
「別に俺、君を非難してるわけじゃないぜ。ただ料理の感想を正直に言っただけなのに、なんで君がそんなに怒るのか分からない」
 相手は憮然としてそう言って、わたしを驚かせた。
 わたしはなにも料理人になろうとしているのではない。料理に自信があったわけでもなく、お世辞を言って欲しかったわけでもない。ただ、彼に喜んで欲しくて、本を見ながら慣れない料理を一所懸命こしらえたのだ。しかし彼は、そういうわたしの気持ちを想像する力に欠けていた。
 何度か同じようなことが起き、そのたびに話をしたが、彼には最後までわたしの言うことが理解できなかったと思う。他の部分ではウマが合ったので随分長くつき合った後に別れたが、その最大の理由が「わたしが彼を想ってした行動や贈り物に対して、彼がその“想い”の部分を全く配慮しなかった」ことだとは、いまだに彼は分かっていないだろう。

 よかれと思ってしたことに感謝されないとき、人は傷つく。悪意はなくても、本音を返されただけであっても、傷つく。それが続けば、心がひねくれてしまう。もしあのとき、父が妹に「こんないつでも買えるものをもらっても、ちっとも嬉しくないなあ」と100円ライターを放り投げていたら、わたしたち姉妹は、いったいどういう大人に育っていただろうか。
 だからと言って心にもない嘘をつけ、と言っているのではない。感謝することと、自分の意見を言うことは別だ。
 妹は、父親よりもさらに強力な「感謝上手」な男と結婚をした。彼は料理が趣味で、イタリアンからフレンチから本格派を作る玄人はだしなのだが、どんな料理もブルドックソース味に仕上げてしまう妹の料理を初めて食べた時、「世界一おいしい!」と言ってくれたそうだ。
 そうでないことは、作った本人が一番分かっている。彼の言う「世界一」は、料理の苦手な妻が自分のために苦労して作ってくれたその気持ちに対する、世界一の感謝なのだ。感謝とは、そういうものだ。

 かたくなに「ありがとう」を言わない男が、いつからどうして「ありがとう」を言えなくなったのかは知らないが、その簡単な一言が言えないだけで、これまで何人の人を不快にさせてきただろうか。そして本人も、どれだけ損をしてきただろう。
 誰かと関わるとき、そこには必ず人の「想い」がある。その想いに心を配れなければ、人は通じ合うことなどできないのではないか、と思う。

 これまでわたしも、人の想いに気づかず、随分たくさんの人を傷つけてきたかもしれない。最後は、自己反省。
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by etsu_okabe | 2004-09-19 23:43 | 日々のこと/エッセー

Shame on me./華氏911を観た

 映画の中で最も印象に残ったのは、イラクに派遣された米軍兵士の言った、
  僕の魂は死んでいる。
  人を殺す度に、僕は自分の魂を殺している。
  魂を殺さなきゃ、人なんて殺せない。
という言葉だ(正確ではありませんが)。

 にやりと笑って冷酷非情に引き金を引くとか、憎しみを抑えきれずにナイフを突き立てるとか、ではない殺人。平常心でヤる人殺し。それが「戦争」だ。

 まともな精神を持った人が見知らぬ誰かをじゃんじゃん殺すことができるのは、それを高みで見物している金満家どもが「殺す理由」をせっせとこしらえて与えてくれるからだ。それがなかったら、誰が好き好んであんな恐ろしいことをするものか。
 マイケル・ムーアはその「高みの見物客ども」の実体を、「殺す理由」の嘘を、平易な表現で見せてくれた(この“平易”が大事なとこ!)。

 怒っている場合ではない。

 わたしは晴れて今月からサラリーマンに復帰した。つまり税金は源泉で徴収される。その金は巡り巡って一つの銃弾になり、海を渡ることだろう。
 わたしの労働が、遥か遠い国で、いつか友だちになるはずだったかもしれない誰かを、殺しているということだ。
 それが、戦争。
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by etsu_okabe | 2004-09-16 00:41 | 映画/芝居のこと

いらない留守番電話

 留守番電話に「××です。電話をください」というメッセージが残されていると、わたしはとっても不愉快な気分になる(仕事とは関係ない、友人・知人からのメッセージのこと)。
 何か大事な用件なのかとバカ正直に電話をかけてみると、大事なのは相手にとってだけであって、わたしにはどうでもいいことだったり、明日でも明後日でも用の足りる内容だったりするものだから、なおのこと腹が立つ。しかもその電話で1時間も2時間もしゃべくり倒された日には、切ったあとちゃぶ台をひっくり返したくなるというものだ。

 留守電に切り替わるということは、イエ電だったら相手は不在なのだし、携帯だったら何か事情があって出られないということだ。用事があるのは自分の方なのだから、相手に負担(電話代と時間!)をかけさせるのは間違っている。
 留守電で間に合う用件ならその内容を言い残せばいいし、間に合わない内容なら「××です。大事な用件なので、またかけ直すね!」と残し、何度でもかけ直すべきだ。

 緊急の場合でも「××です。○○に関する緊急の用件なので、またかけ直すね」でいい。
 わたしがマナーモードの携帯をバッグに入れっぱなしで飲んだくれていた場合、途中でそんなメッセージを聞けば、携帯をテーブルに置いて次にかかってきたらすぐ取れるようにするし、用件や状況によってはこちらからかけもする。

 ここ数日「電話ちょうだい」メッセージを続けて受け、苛立ってつい書いてしまった。
 些細なことのようで意外とフラストレーションが溜まるのは、これが人の、相手に対する配慮や思いやりの現れる行為だからだと思う。

 そんなわけで今日、携帯電話の留守電サービスを解除した。イエ電にはもともと留守電機能がついていない。9月から会社員に復帰して個人で仕事をとることもなくなったので、留守電がないことで誰かに迷惑をかけることもない。

 なんだ、留守電なんて全然必要なかったじゃん!
 まだまだ余計なものを持ってる気がしてきた。
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by etsu_okabe | 2004-09-11 18:42 | 日々のこと/エッセー

恋する匂い

 行きつけのバーのマスターが突然「絶対えっちゃんと気が合うと思う男性がいる!」と言いだし、その人を呼んでくれた。
 よそで飲んでいたその人も、わたしの方も友だち連れだったので、カウンターだけの店では全くひとことも会話はできなかったが、紹介してくれたマスターの手前、帰り際に電話番号とメアドのメモをもらって別れた。彼の第一印象は、悪くなかった。

 その後なかなか会う時間が取れず、メールと電話だけで何度か交流をした。
 マスターの見立て通り、趣味趣向のベクトルが同じ方向の人で、1言ったら5返ってくるような会話が続き、「これはもしかしたら!」と、思った。つまり、わたしは彼のメールの文章と電話の声に、軽〜く「恋」をしていたのだと思う。

 気分がすっかり盛り上がったところで、やっと彼と会う日になった。
 思った通り会話は途切れることもなく、本当に本当に楽しい時間だった。今まで誰とも共有できなかった話題(寺山修司の実験映画についてとか...共有しにくいよね)にも触れることができて、嬉しくていつにも増してお喋りになった。

 なのに、なのに。
 ちっとも、ドキドキしない。

 わたしという女は、滅法惚れっぽい。しょっちゅう恋に落ちている。20代の男の子から60代のおじさままで、会えば目がハート型になってしまう男性が何人もいる。ちと大袈裟に言えば、わたしの周りにいるオトコは、その9割がたがわたしに惚れられていると思っていい。
 迷惑だろうがややこしかろうが、そういう体質なのだ。憎むより100倍いいでしょ?

 だから、こういう展開は逆に珍しい。しかも、メールや電話ですっかり気分がそのモードになっていただけに、失望感は大きかった。
 その人に「何かが足りなかった」わけでも、「何かが多すぎた」わけでもない。なんだろう、これは。

 匂い、みたいなものかもしれない。
 メールや電話では決して感じることのできない、人のナマミの身体から発する「何か」に対して、わたしの本能的な感覚が「NO!」と言っているとしか思えないのだ。
 そう考えると、今までわたしが「絶対にタイプじゃない!」はずの男とつきあってしまったりした理由もわかる。その人のバックグラウンドとか経歴とか性格には関係なく、「匂い」に惹きつけられていたのだ。

 本来、人はきっと他の動物と同様、最初に相手の「匂い」を確かめてから恋をするようにできていたのだと思う。ところが文明が発達するにつれ、郵便、電話、インターネットと、「匂い」より先に、人柄やバックグラウンドを探れるようになってしまった。
 お陰で、恋に「条件」がつけられるようになった。トラブルが生じるのも当然だ。

 これからは、もっと自分の本能に忠実に、プリミティブに生きていこう。
 そう決意して、食欲の秋、到来。
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by etsu_okabe | 2004-09-05 03:44 | 日々のこと/エッセー