小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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酉の市

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 昨日(11月25日)、新宿・花園神社の酉の市(三の酉前夜祭)へ行った。
 酉の市といえば、昔はもう冬物のコートを着て白い息を吐いていたような気がするが、近頃はまだ革ジャンだけで十分。甘酒を飲むムードでもなくて、景気づけの屋台では冷や酒を引っ掛けた。
 実家も自分自身も商売をしたことがないのでこれまで一度も買ったことのない「熊手」。今年は就職を祝って、ひとつ買ってみることにした。
「縁起モノは値切れば値切る程いいって言うからね! 値切るぞっ!」
 同行の友人二人と、気合いを入れ合う。年ごとに値を上げて大きいものを買わねばならないのだから、初回は安けりゃ安い方がいいのだ。さあっ、どこの熊手がいい熊手なの!?
 意気込んだものの、どの店もさほど変わらない。
 となれば、あとは店の雰囲気だ。イキのいい声で手締めをしてくれるような、いなせな男前と値切り合戦したいなあ......などと、千円以下のものしか買わないつもりのクセに図々しいことを考えながら店を物色していると、「お姉さん」と声をかけられた。
 あまりやる気があるとも思えぬ若い男が3人、ちんまりと開いている店。そこだけ、祭りらしからぬつげ義春的風景が漂っている感じ。
「これ、1個1,500円ね。高い? じゃあ1,000円。三人とも買ってくれるなら700円にするよ。あ、一人2個買ってくれるなら2個で1,000円でいいや」
 こうして、ほんの1分で3分の1にプライスダウンした「商売繁盛」と「家内安全」を手に、「値切った感」がないままゴールデン街へ流れた不完全燃焼の夜。
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by etsu_okabe | 2004-11-26 22:42 | 日々のこと/エッセー

可能性の消失

 仙波眞弓さんの記事の中にあった一節、
<生きるということは、可能性を絶え間なく捨てていることでもある。>
 にTB。

 高校を卒業して進路を考えたとき、つい数年前にはどれもこれも簡単に叶うと信じていた「夢」の数々の、その殆どが全く手の届かないところにあると分かって愕然とした。
 その頃からわたしは、
「成長とは、可能性の消失に気づく旅」
 と考えるようになった。

 十年来の友人に、今まで一度もまともに働いたことのない女性がいる。エキセントリックな風貌と言動が魅力的だった彼女も、もう30歳を越えた。
 20代の頃は、たまにアルバイトを決めてきては数日で辞めた。
「あんなお店のためにわたしは生きてるんじゃないって、そう思ったの!」
 胸を張って言う彼女に、
「そうだよ。あなたはお店のために生きてるんじゃない。あなたが生きるためにお店で働くんでしょ」
 そう諭しても、聞く耳を持たない。やりたいことしかやりたくないと言う。では何がしたいのかと聞くと、歌手だ女優だと言う。ならその道に進むために何をしているのかと問うと、これからするつもりだと言う。そしていつまで経っても、何もしない。
 しばらくすると、入社試験の当日に必ず具合が悪くなるようになった。占い師の指示で不吉な方角だったからやめた、というのもある。働きたくないのではなく、他に理由があって働けないのだ、というのが彼女の言い分だった。
 そのうち、彼女は精神科に通うようになった。医者は患者が不調を訴えれば、何かしら対処はするものなのだろう。「病名はこれといってない」と言いながら、薬はどっさり処方する。それは彼女の、働かないための都合のいい理由になった。
 今、彼女は生活保護を受けて生活している。月額13万円ももらえるので、たまにはわたしと飲みにいくこともできる(銭金の貧乏さんよりよっぽど羽振りがいい)。
 精神科通いはやめていない。未だに「特に病名はない」状態だが、本人は「多分ノイローゼ。最近は統合失調症の気もある」と言っている。薬が弱くて不眠が辛いと嘆く彼女がわたしの平均睡眠時間(4〜5時間)を聞いて絶句した。わたしの方が寝ていないらしい。笑えない話だ。医者はどんな診察をしているのだろう。
 最近は、自分が社会生活をまともにできないのは幼い頃両親が離婚したせいだと言うようになった。母親に中絶経験があることも原因だと、どこぞの宗教家に言われて信じている。
「本当は働きたい」
 というので、何をしたいのかと聞くと、歌手、女優、タレント、モデル、大金持ちの妻、と、次々に列挙し始めた。わたしをおちょくっているのではない。芸能界にいる母親と、広告業界にいる父親の力があれば、本当に今でもどの職業(金持ちの妻は除く)にも就けると思っているのだ。何ひとつ、勉強したことも経験したこともないのに。
 このままではいつか本物の病気になるかもしれないが、今のところ彼女の精神はいたってまともだ。問題はただひとつ、この十年殆ど成長することができず、自分の可能性の消失に、全く気づけていないということだ。

 彼女を見ていて、可能性の消失を認めることは、決して寂しいことではないと思うようになった。
 失った可能性は、残る可能性のために自然に間引かれていっただけだ。自分の身の丈に合った本物の可能性は、成長とともにむしろぐんぐん根を張り枝を延ばしている。それは、他の可能性の犠牲のおかげなのではないか。いつまでも全ての可能性を手放せないでいると、本物の可能性まで立ち枯れてしまうのではないか。

 彼女は今夜も、持ちきれないたくさんの夢を必死に抱えたまま、睡眠薬で眠りについているのだろう。抱えた腕の中が空っぽだということに気づいたとき、彼女はどうなってしまうだろうか。
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by etsu_okabe | 2004-11-25 01:46 | 日々のこと/エッセー
 プロの行為として許せないこと、というのがある。
 例えば、わたしは今WEBデザイナーとしてあるネットショップサイトの制作に携わっているのだが、売っていない商品のイメージ写真を「カッコイイ写真だから」という理由でトップページに使用したり、リンクの全く貼られていないサムネイルを並べたページを公開したり、なんていうのは相当許しがたい。ブランド・ロゴを変形加工する、などというのは「許しがたい」を越えて呆れ返る。
 しかし、そういうことができてしまうプロフェッショナルが、実際に存在する。

 カラオケボックスをそのまま再現したようなステージを、金を取って客に見せるミュージシャンも、かなり許しがたい。
 他人の言葉や思想をそっくり拝借して偉そうに語るコメンテーターも、許せない。
 客に恥をかかせるような接客をするレストランには、火をつけたくなる。
 子供を支配しようとする教師は、その時点で教師ではないと思う。

 わたしには、編集や物書きを生業としている友人が何人かいる。大手出版社、小さな編集プロダクション、フリーランスと、身を置く場所は様々だが、言葉、文章に対する真摯な姿勢は皆同じだ。言葉というツールを使ってものづくりをしているのだというプライドが、彼ら彼女らにはある。
 だから彼らが書くものは、仕事とは無関係のメールにしてもBBSの書込みにしても、いい加減なものはひとつもない。別段肩肘張っているわけではなく、ただ、言葉に対して慎重でいるということが、自然に身についている感じだ。
 わたしは、それがプロの編集者・ライターというものだと思う。

 最近、そういった言葉・文章に対する真摯な姿勢が全く感じられない「許しがたい編集者」に出会った。
 自分の思いの丈を書きなぐったあと、それがいかに陳腐な表現かを顧みることもなく、「これであなたはわたしの気持ちを理解したと思う」と言いきる思い上がりは、言葉を扱うプロフェッショナルの一体どこから生まれてくるものなのだろうか。
「理解しただろうから、ああしろ、こうしろ」と続くその文章を破り捨ててやりたかったが、いかんせんEメールである。気が納まらないので、保存して飽きるまで読み返して笑ってやろうと思ったが、一晩寝たらどうでもよくなってしまった。で、消去。

 いかにプロでも失敗することはある。わたしなど、失敗の連続だ。
 しかし、その失敗がプロとして許されないものであるとしたら、わたしはそれを素直に恥じるべきだと思う。開き直ったり誰かのせいにしたり逆ギレしたりしたら、それはもう、プロじゃない。
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by etsu_okabe | 2004-11-20 15:52 | 日々のこと/エッセー

箸が転げて笑い転げて

 道を歩いていたら、後ろの方からキャッキャと楽しげな笑い声が迫ってきた。間もなくわたしを追い抜いて行ったのは、手を繋いで自転車を並走させる中学生くらいの女の子二人。
 彼女たちは会話らしい会話はしておらず、良からぬキノコでも食べたのではないかと思うほど、ただ大声でひゃあひゃあコロコロと笑いあっている。歩行者には眉をひそめている人もいた。

 女の子には、文字通り「箸が転がってもおかしい」という時期がある。わたしも中学生の頃そうだった。
 とにかく何をしても何が起きても、おかしくておかしくて仕方がない。朝不機嫌に起きても、通学途中で友達の顔を見ればもうおかしい。おしゃべりが始まるそばから、テンションは急カーブを描いて上昇する。笑い過ぎて腹筋が痛くなることもよくあった。

 今にして思うと、あれは一種の「躁状態」だったんだろう。
 それまで無邪気に大人を信じてきたものが、この頃には色んなからくりに気づかされ、
「大人になりたくない」
 が合言葉になっている。
 それでいて、自分がその大嫌いな大人に着実に「なっていく」ことを感じさせられる日々は、まるで自分が汚れていくようで、案外とてもストレスフルなものだったのかもしれない。
 あれを軽い一時的な「躁鬱病」だったと考えれば、躁状態と同じくらいに「鬱状態」もあったことを思い出す。ことあるごとに自己嫌悪に陥り、自信をなくし、恥じてばかりいた。
 箸が転げてもおかしかったのは、箸が転げても落ち込んだことの反動だったのだろう。

 とまあこんな風に、女の子はその不安定な心のバランスを「笑う」ことで上手にコントロールしているのだとして、では、男の子の場合はどうなのだろう。
 この頃の男の子は、女の子のように異常なほど笑ったりはせず、むしろ、いつも怒っていたような気がする。行動も危険なことばかりで、屋上の手すりを歩いたり、徒党を組んで喧嘩をしたり、校舎の窓ガラスを割ったりと、女子が怖がるようなことばかりしていた。
 男子の鬱屈した心の昇華方法は、やはり「攻撃」なのだろうか。

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 以下余談。
「箸が転がっても笑っちゃう」このややこしい精神状態が嘘のようにすーっと消え去ったのは、高校に入学した瞬間だった。
 理由は単純。大人になることを率先して楽しめるようになった、つまり、本格的に発情したからだ。
 わたしの場合は女子高だったので、それこそ剥き出しの発情集団の中に放りこまれたようなものだった。少しでも綺麗になること、オスの目にとまるよう目立つこと、そして誰よりも早く色々な体験をすること、そんなことで頭の中はパンパン。
 いつの時代も、女子高生とは破廉恥なものなのです。
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by etsu_okabe | 2004-11-14 01:39 | 日々のこと/エッセー

予知、夢?

 明け方、天井の方からゴォォォという音がするのに気づいて目覚めた。しょっちゅう泊まっている妹夫婦のマンションの部屋だった。
 嫌な予感にベッドから起き、西向きの部屋の窓を開けると、5階から見えるまだ薄暗い風景は、白黒写真のように静止している。轟音はどんどん近づいてくる。わたしはベランダに出た。
 そこへわたしの背後、つまり東の方から灰色の煙が一直線に頭上を通り、シューッと西の方へ延びて、落ちた。
 ズズズズゥゥゥゥン
 地響きがしたその瞬間、着弾した方角から鉛色の粘着質っぽい煙が、ものすごいスピードでこちらに向かってきた。
「爆弾が落っこちたんだ」
 ベランダの手すりにもたれながら、わたしは茫然としている。煙はもう目前に迫り、逃げ切れないことは明らかだった。
 爆風に巻き込まれる瞬間、意識を失うと同時に、目が覚めた。

 わたしはある一時期、たて続けに予知夢を見たことがある。
 内容は大したことではなくて、普段話題にも上らない遠方の親戚や、すっかり疎遠になっている知人の夢を見て、なんでだろうと首をひねっていると翌日その人から電話がかかってくる、というものだ。
 半年くらいの間に数回、集中してそういう夢を見て、気味が悪くなった頃、ぱたりとなくなった。

 実を言うと、爆弾の夢を見た少し前、気になる夢を見た。友人がとても悲しそうな顔でわたしを見ている、という夢だった。
 胸騒ぎがして翌日彼の顔を見に行くと、何も問題は起きておらず、身体もぴんぴんしている。ほっとして帰ったその晩、彼は財布をなくしてしまった。

 本人はそれほどヘコんでいなかったが、もしこれが予知夢だとしたら、またしばらくの間集中して見るのだろうか。
 とすると、あの爆弾は......。

(東の方から飛んできたっていうのが、とても気になってます)
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by etsu_okabe | 2004-11-10 01:39 | 日々のこと/エッセー

運命の人。

 赤い糸、なんて言うと少女趣味的過ぎてわたしらしくないのだが、でも、人には必ず唯一無二の相手がどこかにいて、その人とはやはり運命の力が働いて出会うものではないかしら、と小さな頃から思っていた。
 で、しばらく恋ができないでいたとき、ふと考えたのだ。
「わたしのご先祖さまたちのカップルが、ちょびっとづつ出会うのが遅れて、わたしの結ばれるべき相手のご先祖さまたちが、ちょびっとづつ早めに出会ってしまっていたら......ひょっとして、あたしの唯一無二の相手って、幕末頃に生まれてもう死んじゃってんじゃないのー!」

 全くバカバカしいとは思うが、わたしはこの自分の発想がけっこう気に入っていて、今でもミュージアムで古い展示物を見たりすると、
「あ、あたしのダーリン、ここにいたのかも」
 などと、ロマンチックな妄想に耽ったりしている。

 しかしそう考えると、たかだか7、80年の人生で、同時代に生きて出会ったというだけで、奇跡のような気がしてくるではないか。
「よくぞわたしの生きている期間に、生まれて生きてくれたね!」
 と、目の前のあの人この人、赤ん坊からおじいちゃんまで、みんなに抱きつきたくなるではないか!
 なりませんか?
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by etsu_okabe | 2004-11-07 03:44 | 日々のこと/エッセー

こわいよ、たすけて

 今日、職場で。
 昼休み、近くの公園に煙草を吸いに行って戻ると、
「おかべさん、グロいの見ませんか」
 隣の男が、自分のパソコンのモニタを見ながらニヤニヤ嬉しそうに言う。他にいた2人も同じ笑顔を浮かべて、でもそっぽを向いている。
 嫌な予感がした。
「エロならいいけどグロは嫌いだから、絶対に見ないよ」
 ぴしりとそう答えると、3人から忍び笑いが漏れた。胸クソ悪い。

 案の定、それは先日イラクで殺された日本青年の、殺害ビデオのことだった。ネットで公開されていたのを見つけたのだという。

「いやー、出るだろうと思ったけど、こんな簡単に見つかるとはね」
「俺、さすがにヘコみましたよ」
「えー、全然平気で見てた自分て、なんなんすかね〜」
 へらへら、へらへら、下劣な笑い声が部屋中を巡る。そのうち、シーンの描写までしはじめた。彼らはその会話を楽しんでいる。オカベさんも一緒に楽しみましょうよと、誘いかけている。
 こめかみがジンジン痺れてきた。
「なんて品がないの」
 思わずそう言ったとき、わたしは鬼のような顔をしていたのだと思う。それきり全員、ぷっつり黙った。隣の男は「なんだよ、せっかく楽しんでたのに」とでも言いたげだった。

 この小さな部屋の中は、今の世の中の縮図なの?
 狂っているのはどっち?
 わたしの居場所ってここにあるの?
「こわいよ、たすけて」と胸の中で唱えているうち、昼休みが終わった。
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by etsu_okabe | 2004-11-04 23:13 | 日々のこと/エッセー

出会い

 なんでもかんでも思い通りにいくことなんて、ない。そんなこと、分かってる。それなのに、10のうち7くらい望み通りにいってるくせに、3の「意に沿わぬこと」のために、うつむいて、じゅくじゅくうにゅうにゅ考え込んで、怒って、恨んで、憎んで、息をするのも忘れている。

 それは、そんな日の午後のこと。

 わたしはおそらく眉間に深〜い皺を寄せ、下唇をキッと噛み、足を投げ出し、ふて腐れてパソコンに向かっていた。
 その時、ラジオから流れてきたのだ。春の雨のように、静かで美しい音。
 胸の底で固まっていた大岩が、水分を吸ってほろほろと崩れた。誰に向かってか分からないけれど、「ごめんなさい」と言いたくなって、涙がぽろっと零れた。

 ハナレグミの「家族の風景」。
 今まで何度か友人に勧められて聴いたこともあったのに、なぜだかそのときはピンとこなかった。
 音楽も、人も、出会い方ってあるのかもしれない。

 わたしも誰かにとって、いい出会いになっているといいな。なーんて、いい歌と出会うと、わたしはしばらく「いい人」でいられるのだ。感謝。
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by etsu_okabe | 2004-11-02 22:30 | 音・詩のこと