小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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greendale/グリーンデイル

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 冬休み初日に雪とはなんてハッピー! と浮かれて散歩に出かけ、近所のバウスシアターで『Greendale』のポスターを発見。
 ニール・ヤング監督作品である。
 レイトショーにて“爆音”上映中!! である。
 人っこ一人並んでいないが、ただ今「整理券」発行中、である。
 そそる。そそりすぎる。

 一旦家に戻って腹ごしらえし、整理番号「6番」のチケットを握りしめて再び会場に行くと、観客は十人くらいしかいなかった。しかも、とても“爆音上映”に堪えられるとは思えない高齢者ばかり。いやいや、ニール・ヤングももう60近いはず。さもありなん。

 映画は全編、ニール・ヤングの歌によってストーリーが進んでいく。役者の台詞は全て歌詞。話し言葉の台詞やナレーションは一切ない。
 最初はちょっと戸惑ったが、数分後には体が揺れていた。音楽用PAから流されるLIVE感溢れる音は“爆音”というより“良音”。8mmカメラで撮られた粗っぽく懐かしい感じのする映像にも引き込まれた。

 舞台は架空の田舎町「グリーンデイル」。ここに住む平凡な人たちに起こる事件や日常の中に、現代のアメリカが抱える問題が浮かび上がって見えてくる。
 問題意識を持ちながら田舎で自分を持て余している少女、町を陽気に闊歩する悪魔、つまらぬことで引き金を引いてしまう若者。様々な人の生活を切り取るように見ていくので、誰かに感情移入するということはできない。しかし、全体から漂うメッセージがいつの間にか心に居着いている映画だった。
 これも、音楽の効果なのかな。

 わたし、大掃除いつするつもりなんだろう。

・トレイラー(Quicktime)
・トレイラー(WindowsMedia)
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by etsu_okabe | 2004-12-30 02:32 | 映画/芝居のこと

しあわせって何?

 この時期になると思い出す童話がある。誰もが一度は読んだことがあるだろう、アンデルセンの『マッチ売りの少女』だ。

   *   *   *
 大晦日の夜。
 雪の中、裸足でマッチを売り歩く少女。ひと箱も売れていないので、家に帰ることができない。恐ろしい父親にぶたれるからだ。
 寒さと飢えのため家の壁にうずくまった少女が、寒さを凌ごうと売り物のマッチを一本擦ると、あかりの中にあたたかいストーブが浮かび、炎が燃え尽きると同時に消えてしまう。もう一本擦るとご馳走が、次の一本では美しいクリスマスツリーが、次々に浮かんでは消えていく。
 やがて、あかりの中に大好きな死んだおばあさんが現われた。唯一少女を愛してくれた人だった。
「おばあちゃん、わたしを連れて行って」。
 おばあさんが消えてしまわぬよう、少女は持っていた全てのマッチを擦ってしまう。するとおばあさんは少女を優しく抱いて、天高く上っていく。
 翌朝、人々は幸せそうに微笑む少女の亡骸を見つけ、憐れむ。少女が昨晩どれだけ幸せだったか、知る人はいない。
   *   *   *

 救いようのない悲惨な物語だ。
 宗教によっては「飢えも寒さもない神の元へ召されて最高!」なエンディングなのかもしれないが、現世に生きる子供たちに希望を与える「最高」とは言い難い。なにしろこれは<童話>なのだ。こんな悲しい終わり方はなかろうと思う。
 しかし、親に読み聞かせてもらってから何十年と経った今でもこの物語が他の数ある童話の中から飛び抜けて記憶に残っている(飛び抜けて好きというわけではない)のは、やはり、最後の<少女が昨晩どれだけ幸せだったか、知る人はいない>という終わり方のせいには違いない。これが、少女はお大尽に拾われて幸せに暮らしましたとさ、であったなら、ここまで覚えてはいまい。

 自分を取り巻く環境以外のことを想像するのがまだ難しかった子供時分には、最後の一行を読んでよく分からないまま「そうか、少女は実は幸せだったのか、良かった〜」と、物語にのせられてホッとしながら本を閉じていたと思う。
 もう少し大人になると、夢のように美しく暖かな部屋はそこに暮らしてこそ幸せなのだし、どんなにおいしそうなガチョウの丸焼きも食べてこそ幸せだ。大好きなおばあさんも生きて愛されなければ意味がないじゃないか! と、しあわせの意味を少しは考えるようになる。そしてどんどん「少女が昨晩どれだけ幸せだったか」の意味が分からなくなる。

 大人を何十年とやってきた今でも、実のところわたしにはマッチ売りの少女のしあわせの意味が理解できていない。
 それは、わたしが本当の「絶望」を知らないからだろう。

 たとえば、と思う。
 もの心ついたときから身近な大人に虐待され続けている子供は。
 生まれたときから戦争しっぱなしの国に育つ子供は。
 そんな「絶望」を味わってしまった人には、一瞬で消えてしまう夢を見ながら死んでいく少女のしあわせがわかるのだろうか。

 ところで、わたしのしあわせって一体何だろう。......参った。下世話なことばかり頭に浮かんで、本当の答えが出てこない。
 これも「絶望」を知らないからか。なんと甘い人生だろう。
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by etsu_okabe | 2004-12-26 15:50 | 日々のこと/エッセー

少女椿

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携帯からの投稿を試したくて、今日吉祥寺リブロで購入した一品をご紹介。
以前にも取り上げた少女椿。原作もまた迫るものがある。しかし先に劇場映画版の方を見てしまっているので、頭の中には終始シーザーの音楽が鳴りっぱなし。
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by etsu_okabe | 2004-12-20 01:12
「電車で座席に座っているとき、前に年寄りが立ったら席を譲るか」
 飲んでいる席で質問したことがある。相手は20代と30代の3人の男性。

「そうは言うけどさ、これが以外と嫌な顔されるんだよね、わしゃまだそんな歳じゃない! みたいなさ」
「最近の年寄りって元気だから、譲っていいもんかどうか迷うよ」
「俺、実際譲って『失礼ね』って怒られたことあるからさ」

「ふうん、つまり、あんたたち全員<譲らない>ってことね」

「いや、だからさ、譲らないっていうんじゃなくて、気持ちは譲りたいけど、その親切がアダになるのが嫌っていうかさ......」
「そうそう、俺もそうだよ。譲りたくないわけじゃないよ」

 語れば語るほど虚しいのが<いいわけ>だ。
「相手が妊婦だったら?」
 とは尋ねなかったが、尋ねていれば答えはこんなところだろう。
「妊婦じゃなくてただのデブだったりしたら、悪いじゃん」

 彼らがムキになって説明しているのがただの「いいわけ」だということは、わたし自身が以前そうだったから分かってしまう。年寄りに前に立たれたとき、昔のわたしは狸寝入りもしたし、本に夢中になっているふりもした。どう見てもひっくり返りそうな年寄りには譲ったが、それも意を決してのことだった。
 理由はうまく説明できない。しいて言えば、恥ずかしかったということだろうか。席を譲って車内で目立つことが恥ずかしい。「イイ子」と思われるのが恥ずかしい。「ご親切に」などと頭を下げられるのが恥ずかしい。偽善者と見られるのが恥ずかしい。誰もがそうするべきと思っていることを直球で行動することが恥ずかしい。いや、それだけではなかった気もする。どちらにしても今にして思えば、それこそ恥ずかしい理由だ。

 十数年前、ニューヨークに3か月暮らしたことがある。
 着いた翌日のこと、わたしは道端で、ある目的地までバスで行こうか歩こうかと迷っていた。するとそこに路線バスがやってきて止まり、運転手が「どこに行くの?」と尋ねてきた。答えると「通り道だから乗りなさい」と言う。じゃあバスで行くことにするか、と乗りこみお金を払おうとすると「いらない」と言うので驚いた。彼女は乗客を乗せたのではなく、言葉もままならず不自由している観光客を助けただけなので、運賃などいらぬというわけだ。「でも......」と車内を伺うと、他の乗客たちは特に珍しそうにするでもなく「ずるいぞ」と文句を言うでもない。皆、当たり前という顔をしている。
 しばらく住んでみて、この街の人たちが年寄りや身体の不自由な人たちに手を差し伸べることを<当たり前>にやっているということが分かった。乗り物の中だけの話しではない。公園で、デパートで、道端で、どこででもだ。腰の曲がったおばあさんが、自分よりも腰の曲がったおじいさんを手助けしようとする、そういう街だった。
 こんな環境の中では、<知らん振り>することの方がかえって恥ずかしい。
 気がつけば、わたしは何の気負いもなく席を譲れる人間になっていた。英語はろくに取得できなかったが、もっともっと大事なものを得たと思う。


 吉祥寺東急デパート前の交差点で、盲目の男性が方向を失ったらしく身体をくるくる回して困っているのが見えた。通り過ぎる何十人という人たちは、不自然なくらい彼を見ない。「気づきませんでした」ということを演出しているわけだ。電車の狸寝入りと一緒。悲しい気持ちで近づこうとすると、脇からさっと走りより、彼の手を取って話しかける人がいた。外国人の女性だった。
 吉祥寺駅ビルロンロンの階段で、若い男性がうずくまっていた。彼をまたぐようにして行き過ぎる人たちに彼は見えていない。そんなわけないだろう!
 通勤ラッシュの吉祥寺駅構内で盲人のステッキを蹴飛ばしてそのまま走り去ったサラリーマン。彼は会社に遅刻しそうで急いでいただけだ、悪くない。だからステッキを探して床に這いつくばる盲目の人を助ける気になんかならないよね、そこにいたオメーラよ!

 自分が席を譲れる人間になったから、こんなことをエラそうに書いているのではない。
 殆どの人は鬼ではない。冒頭のいいわけ君たちと同じ「分かっちゃいるけどなぜかできない」だけのこと。当たり前になれば(かつてのわたしと同様)何の抵抗もなくするようになってしまう程度のささいなことが、できないだけだ。
 だから、当たり前になればいい、と思う。

 わたしだって酷い二日酔いの日や生理痛の日には、いくら年寄りや妊婦がいても席を立ちたくない。しかし「生理二日目お腹裂けそう」とタスキをかけておくわけにもいかないので、仕方なく立つことになる。何故なら、本当に他の誰も席を譲ろうとしないからだ。
 それから、わたしは時々貧血を起こす。もしこの街のどこかで一人きりのときに倒れてしまったら、と思うと怖い。たくさんの善良そうな人間で溢れ返っている街の真ん中で、何百人という人にまたぎ越され、無視し続けられて、野垂れ死ぬかもしれないと思うと怖いのだ。

 だからわたしは席を譲るし、倒れている人には声をかける。困った人には手を差し伸べる。
 それがこの街で当たり前になって、自分や友達や家族が、野垂れ死ななくてすむように。理由はそれだけだ。

こちらへTBしてます。
FNW annex
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by etsu_okabe | 2004-12-18 15:51 | 日々のこと/エッセー
・根生姜の千切り(初心者はおろしてもよし。わたしはベテランなのでただの薄切りにします)
・ニンニクのみじん切り(わたしはベテランなので、厚めの輪切りにしてホクホクした食感を楽しみます)
・長ねぎのざく切り(ベテランなので切らずに一本丸ごと....うそです)

 以上の材料を適当な量の水で鍋にかけます。だしの素を入れるもよし。
 煮えるまでの間、熱燗1合を(半分にしとけこの大酒のみ!と非難されながら)ちびちびやります。これが2合までいったら、その時点で風邪、治ってます。
 そして味付けは、

・しょうゆ
・みそ
・酒

 これをお椀に一杯(わたしはベテランなのでどんぶり一杯)飲みますと、ちょっと汗が滲むくらい身体がホカホカ温まりますので、そのままベッドへゴー!
 ぜひ、お試しください。匂いさえなければ、毎晩食したいくらい美味しいです。

 わたしはこれまで、このスープでたいていの初期風邪を退治して参りました。
 ところが今、今シーズン二度目の風邪でダウンしています。10月初めに引いたばかりなのにまた引くなんて、こんなことは初めて。やっぱりトシなのかしら......いやいやっ。
 トシといえば来週、145cm 35kg(だった) の母が、こんなわたしを死ぬほど痛い思いをしながら産み落としてくれた記念日がやってきます。感謝、感謝。
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by etsu_okabe | 2004-12-14 21:54 | 日々のこと/エッセー

クレームとイチャモン

「クレームしつこい」と牛丼店店長が会社員を刺殺

 クレームとイチャモンは違う、と思う。
 クレームは理不尽な被害や不公平な扱いを受けた人がその不満を訴える「苦情」、イチャモンは「難クセ」だ。
 持ち帰り弁当の中身が片寄っていたとか、出来上がるまでの待ち時間に水を出さないとか、被害者がつけていたのは「苦情」ではなく明らかに「難クセ」だ。これを「クレーム」と言ってしまうと、正当なクレーム(弁当の中に虫が入っていたとか店員が会計をごまかしたとか)をつけている人まで悪人になってしまう気がして恐ろしい。

 同じことを、企業に対しても思う。
 わたしが以前所属していた企業では、顧客のクレーム対応が適切にできるかどうかも、スタッフの勤務評価の対象だった。
 このとき社内では、電話口で怒鳴り散らす客は全て、その内容に関わらず「クレーマー」と呼んでいたので、クレーマー=「困ったイチャモン野郎。話しの通じないキチガイ」と誤って捉えているスタッフが多くいた。そんなスタッフが、正当なクレームに対してまで攻撃的で横柄な対応をし、話がこじれてしまうこともよくあった。
 それとは逆に、マニュアル通りの「誠意ある対応」をしなければと思うあまり、ただのイチャモンにまで神経質に対応し、精神的に大きな苦痛を受けて辞めていくような人もいた。

 クレーム=正当な苦情→企業の改善に繋がる顧客からのメッセージ
 イチャモン=難クセ→ただの言いがかり

 とはっきり分けた上で、企業はそれぞれに相応しい対応方法を従業員に教育すべきではないだろうか。

 わたしは今回の事件、牛丼屋の店長がただのイチャモンに対して律儀にマニュアル通りのクレーム対応をしようとし、空回りの末ストレスを溜めこみ、自爆してしまったのではないかと思われてならないのだ。

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東京無重力生活
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by etsu_okabe | 2004-12-12 14:28 | 日々のこと/エッセー

ミュージシャンの不安

 招かれた楽屋の前で、さっきまで満員の観客から大喝采を浴びていたメインプレイヤーとTが、濃厚なキスを続けている。程よく酔って気持ち良かったわたしは、壁に寄りかかってそれを眺めていた。ひっきりなしに行き来するスタッフたちは、馴れたものでそんなものは眼中に入れていない。
「ハロー、僕の名前はラ○○だ。君の名前は?」
「何? ラ○○?」
「違うよ、ラ○○」
 日本人には発音できない名前の不細工な太っちょ男が、馴れ馴れしくわたしの手を取り、マネージャーだと言ってにやっと笑う。一銭にもならないわたしに愛想など振り撒いても仕方あるまいに。グルーピー(ジャズの世界でもグルーピーって言うのかな)とでも間違われたか。
 心神喪失状態のTとのキスの合間に、ミュージシャンは呆れ顔のわたしにもキュートな笑顔を向け、握手を求め、ものすごく優しいハグをしてくる。これが、演奏を見せられた直後だということをさっ引いても、ついクラッとなるような「心のこもった」笑顔、抱擁なので驚いた。さらに驚いたことに、彼はわたしたちを別のライブのゲストリストに入れてしまった。
 二人の唇が離れた隙を見て交わした会話から、彼が昨年Tと同じ場所で会ったこと(あるコネクションを通して)を覚えているらしいことは分かったが、ただそれだけの一ファンに対して、この親密なサービスぶりは何なのかしら、と気になった。

 ミュージシャンとは、どんなに拍手を浴びていても、自分の作り出したものに自信が持てなければ、いつまでも「ダメなんじゃないか」という不安につきまとわれる職業だと思う(昨年見た映画「アイデン&ティティ」にも、その辺りがうまく描かれていた。本命の彼女がいるのに、ツアー先でファンの子と寝ずにはおれない主人公の不安感)。
 音楽の力やその頼りなさを一番よく知っているのが音楽家自身だから、涸れていく才能に無理矢理どぶ水をぶっかけて演奏することもあるだろう。
 そんな中で、自分を支持してくれるファンの存在というのは、どぶ水を浄化してくれる浄水機のような役目を担っているのかもしれない。
 今回彼はニューアルバム発表後に来日したのだが、数日前にタワレコ視聴機で聞いたこのアルバム、あまりピンとこなくて購入しなかった。ライブでも、昔の曲の方が圧倒的に支持されていた。
 彼の尋常でないあのサービスは、そんな不安感から出てきたものかもしれないな。一晩経って酔いも醒め、そんな考えに至ってただ今ティータイム中。
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by etsu_okabe | 2004-12-11 15:45 | 日々のこと/エッセー
 今度は野球部の大学生が5人で痴漢行為。

 先日の15人レイプがまだ記憶に新しいので、「また運動部」「また団体行為」という言われ方が多くされているが、いずれも加害者の破廉恥ぶりや大学のレベル低下を嘆くものばかりだ。なぜもっと、被害者の視点で事件が語られないのか、歯がゆくてならない。
 被害者の立場に立つと、この事件を「また」などと、先の事件とひと括りにできないことに気づく。

 被害者の女性は、彼らの誰とも面識がない。ただ主犯格に「いい女」と見初められただけで狙われ、電車の中でいきなり図体の大きな見知らぬ男5人に取り囲まれた。周りにはたくさんの乗客がいるのに、誰も助けてくれない。そのまま電車から引きずり降ろされて、拉致されるかもしれなかった。
 どんな恐怖だったか。想像するだけで震えてしまう。

 随分昔、電車の中で痴漢行為を見咎めて注意した女性が、犯人に逆ギレされて電車から降ろされ、人気のないところで強姦された挙句殺されるという事件があった(確か殺されてしまったはずだ。昔の事件なので記憶が定かでないが)。電車に乗っていた誰一人として、彼女を助けなかったのだ。恐らく、彼女のおかげで痴漢行為から救い出された女性さえも。
 そのときの犯人は一人だった。車両に居合わせた数人が一斉に組み伏せれば、とっとと警察に突き出せた事件だ。だから彼女は勇気を出して注意したんだと思う。そこにいる人間たちを「人間」だと信じていたから。

 ところがそこに人間はいなかった。いたのは「他人たち」だ。

 今回の痴漢事件にも、同じく「他人たち」の罪が潜んでいる。
 被害者の女性は、数日前に同じ男たちに同じ電車内で痴漢行為を受け、警察に届けていた。そのとき、朝の通勤電車の中で、何人の「他人たち」が犯罪から目を逸らしたのだろうか。
 5人の痴漢野郎どもの罪の重さは、15人の強姦魔どもと同じだと思う。しかし今回の事件には、別のところにも罪人がいた。
 わたしには、街中に溢れ返っている「他人たち」が、少しづつ小さな罪を持ちよって凶悪な犯罪を簡単に引き起こしている、と思えてならない。
 わたしもまた、そんな「他人たち」の一人であることを、感じることがあるからだ。

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by etsu_okabe | 2004-12-08 22:35
『国士舘大サッカー部員ら15人逮捕 少女にわいせつ容疑 』
http://www.asahi.com/national/update/1201/033.html

・主犯の男が「女子高生とエッチしたいやつは集合」と携帯メールで呼び掛けたということ。
・メールを送った相手が、そういう悪趣味を持つ下衆野郎の集うサイトの同人たちなどではなく、「自分の身近な友人たち」だったということ。
・いったい何十人に宛てられたのかは知らないが、それを読んで最終的に15人もの人非人どもが「女子高生とエッチしに」のこのこやって来たということ。

 考えれば考えるほど、反吐が出そう。

 全国から人が集まる大学の中の、一つの運動部に、これだけ多人数の強姦魔が偶然に揃うということがあるだろうか。
 わたしは、ない、と思う。

 じゃあなぜ、15人もの仲間同士がこんな恥ずかしいことを一緒にできたの?

 わたしは、主犯の男が「同報」で仲間全員に一斉送信したメールに、部活動の延長のような馴れ合い感が漂って、罪悪感を薄めていたのではないかと思う。
 これが個人的なメールだったら、誰も来なかったような気がしてならないのだ。
 そしてその考えが、ますますわたしの気分を悪くさせている。

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しらうめ日記
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by etsu_okabe | 2004-12-03 00:13 | 日々のこと/エッセー
 とても大切な友人が、長くつきあっていた恋人とお別れした。
 ゆうべそれを聞かされて、なぜかショックで落ち込んでしまった。3日泣いて立ち直ったという本人がニコニコ報告してくれているのに、わたしの方がメソメソして慰められるという体たらくだ。

 友人は男性で歳も離れているし(彼の方がずーっと若い)生活のフィールドも違うので、わたしたちはしょっちゅう一緒に遊ぶような間柄ではない。出会ってから3年近く、数歩離れたところからわたしの方が一方的に勇気をもらい、そのお礼に微力を貸しているという関係だ。
 そんな決して濃厚とはいえないつきあいの中でも、たまに二人で話すとき、彼の口から出てくる彼女のことは、わたしの中に深い印象を残した。芯があって品性を持った、頭のいい、かわいい、彼にとって、唯一無二のかけがえのない人。
 のちに会った彼女は、抱いていたイメージ通りの魅力的な人だった。まだ若いのにちっとも無理がなく、背伸びや見栄もなく、自然で、しっかりと地に足の着いた、とてもチャーミングな人。決して派手な華やかさはないけれど、しんと鎮まった湖面のような美しさを持った人だった。そしてその湖底に、激しいマグマの流れのあることを感じさせる人でもあった。
 そういう女性を愛して、愛されている彼を、わたしはますます好きになった。

 ところで。そんな彼女を失った彼の喪失感に感化されて、または彼に同情して、わたしはこんなにも落ち込んでいるのだろうか。
 今日一日、そのことばかり考えて過ごした。
 これまでだって、友達の失恋になど何度も何度も立ち会ってきた。しかし、そのせいで自分がしょげたり落ち込んだりしたことなど、一度もない。
 一体これは何なのだろうか、と。

 仕事からの帰り道、ナゾは解けた。

 わたしも去年、7年つきあった人と別れた。迷ってばかりのわたしに「わたしらしさを知ること」を教えてくれた、本当にかけがえのない人だった。
 色んなことがあって、喧嘩したわけでも憎み合ったわけでもなく、わたしたちは「そうなることが自然だった」としかいいようのない別れ方をした。

 だからわたしは、この大きな大きな失恋で、まだ、一度も泣いていない。

 悲しさや寂しさを沸き起こさせるような激しい別離ではなかったし、どちらかというと「この人とやるべきことはもう全てやりつくした!」という<燃え尽き感>が強くて、わたしはこの一年、彼とのことなど全く振り返らなかった。
 かといって、未来を見つめて驀進していたわけでもない。そんなフリはしていたが、実はただ気の抜けた日々を過ごしていただけだ。
 それが、大好きだったカップルの別れを知って、「かけがえのない人を失う」ということを考えさせられて、ここにきて初めて、わたしはわたし自身の喪失感に、やっと気がついたのだ。
 なんというか、おっちょこちょいにもほどがある。呆れてしまう。ほんと、大バカ者だ。

 辛いけれど、わたしはこれからしばらく、別れた彼との7年間を見つめ直して、きちんと悲しんで、惜しんで、悔いて、寂しがって、そしてちゃんと立ち直ってみようと思う。
 それで何が変わるものでもないだろうが、こうすることで、わたしの中でひとつの恋愛がきっちり終わるような気がする。
 そしてそうしなければ、ハッピーな「次」がやってこないような気もするのだ(まだまだする気です。ふっふっふ)。
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by etsu_okabe | 2004-12-01 21:59 | 日々のこと/エッセー