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小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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ゲイがタウンを作るわけ

 大人の男性の5人に一人がゲイという街、サンフランシスコ。
 惚れっぽいわたしなど、うかうか恋に落ちていては身が持たない街だ。5回に1回、どうがんばっても適わぬ恋に身悶えするんなんて、しんど過ぎる。

 新宿三丁目に行きつけのバーがある。
 マスターはゲイだ。日本のゲイ・タウン新宿二丁目が隣にあるせいもあるのだろう、常連客にもゲイの人は多い。店の中はときに、5人に一人どころか男性全員がゲイなんてこともある。この店に通うようになってから、わたしにとってゲイは、特殊でも珍しいものでもなくなった。
 先日この店で、客はわたしの他には古くからの常連らしい女性が一人いるだけ、という夜があった。気の置けない雰囲気なのをいいことに、話題はだんだん深いところへ掘り下がっていく。
 入れるモノと入れられるモノを両方持っている男同士の秘め事とは、一体どうなってるのか。ご想像通り、掘った先のゴールはここだ。
 マスターは隠しも飾りもせずに、随分立ち入ったところまでを話してくれた(そんな話をしていても下品にならないところが、この人の人柄だ)。
 彼によると、おねえ言葉を使う「おカマ」と呼ばれるタイプの人でも、セックスになると男、つまり「入れる専門」だという人もいるそうだ。逆に、女性的な色白坊やを恋人にして連れ回している雄々しいマッチョが、二人きりになるといきなり女役、いわゆる「ネコ」に変身する場合もあるんだとか。
 ゲイの性愛は、ものすごく複雑なのだ。ぴったりのパートナーを探し当てるなんて、至難の業ではないか。
 とそこまで考えて、合点がいった。そうか、サンフランシスコにしても新宿二丁目にしても、ゲイが街を作って集まるのは、密度を濃くしてなるたけ効率よく相手を見つけるためなんだ!
 自分は何の恩恵も受けられない“高ゲイ密度”のバーで、そんな当たり前のことにふむふむ感心などしている場合じゃないぞ、わたし。

「ゲイの都」世界一はサンフランシスコ
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by etsu_okabe | 2006-04-11 01:54 | 日々のこと/エッセー

自分を、見る

 一応女なので、毎朝鏡に顔を映す(男でも映しますか)。
 よほど差し迫った朝でない限り、鏡に映した顔をみるたびに思うことがある。

「この世で初めて自分の顔を見た人って、どう思っただろう」

 世の中に鏡が存在しない時代に人が自分の姿を見るとしたら、静かな湖面くらいのものだ。そうやって映った自分の姿に恋をして花になっちゃったギリシャの神様がいるが、それは所詮物語。湖や水たまりに映る姿など、色も乏しく曖昧だ。
 自分と他人の容姿を比較できなかった時代には、顔の造作は人の価値を計る基準ではなかったに違いない。とすると、鏡の発明とは美容の誕生、人が自分自身に強迫される歴史の始まりだったのか。ああ本当は、自分の姿など一生見れない方が幸せだったのではないだろうか。
 いやまてよ、とまた考える。
 鏡は鏡、ナマじゃない。写真やビデオだって、レンズを通したニセモノ。つまり、今だってわたしは、ただの一度も「生の自分の顔」を見たことはないということだ。
 ナマで見るA子の顔と、鏡に映ったA子の顔は、違う。実物と湖面ほどではないにしても、確実に誤差はある。僅かではあるが“誤差のある自分の顔”しか、わたしは見たことがないのだ。
 そう考えると、ナマの自分を想像するのが恐くなってくる。人がドッペルゲンガーを恐れる理由がよく分かった。最も知っているつもりで最も未知なるもの、それが「自分」なのだ。

 実は昨日、生まれて初めて自分の内蔵を見た。胃カメラを飲んだのだ。
 自分のモノなのに、これほどしんどい思いをしなければ決して見ることのできない身体の一部。ピンクでぬるぬるぷるんぷるんのわたしの胃袋。こんなモンがたった今もわたしの中にあるのが信じられないが、不摂生で酷使したせいで赤く炎症を起こしているのを見たら、なんとなく愛おしさが生まれてきた。
 そして突然、肉体は“わたしのモノ”ではないような気がしてきた。
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by etsu_okabe | 2006-04-07 02:20 | 日々のこと/エッセー

遊び上手

 昨年12月に職場が変わってから仕事も会社も面白くて仕方ないのだが、ただひとつ問題なのがとにかく忙し過ぎること。
 メインの仕事はWEB制作で、常に納期に追われる仕事だ。そんなことは重々分かって入った。それにしても。いくらなんでも毎晩23時過ぎというのはどうだろうか。週に2日午前様というのはどうだろうか。
 しかもわたしは友人と独立を目論んでおり、その準備や依頼されたお仕事などもこなさなければならないわけだが、平日はこのザマで疲弊しきって何もできないので、必然的に独立仕事は土日でこなす日々。
 というわけで、わたしは昨年12月から、丸々ホンモノの「休日」を、ただの一日もとっていなかった。

 溜まりに溜まった疲労は、すぐに悲鳴を上げた。
 昨年末、仕事納めのその日、深夜の職場で視界に光が走ってモニタが見れなくなり、その数分後、激しい頭痛に襲われた。翌日駆け込んだ脳外科で撮ったCTでは異常なし。医者からは「典型的な偏頭痛」とタイコ判を押された。
 それをきっかけに、背中じゅうが鋼鉄を背負ったように固くなった。肩こり、首こりだ。職場を変わってから、せっかく続けていたヨガ教室に全く行けなくなってしまったことも、こりを悪化させた原因のひとつであろう。ここのところ、運動らしい運動を全くしていない。
 このままロボットになってしまうのではないかと思うほど、固く重たい身体を引き摺ったまま、それでもわたしは生活を改めようとしなかった。
 3月に入ってついに首から肩にかけて痛みが走るようになり、仕事帰り深夜営業のマッサージサロンに駆け込んだ。意外なことに、最も凝りの酷いのは「腰」だと言われた。
 マッサージでなんとかなだめながら、仕事を続けた。ヤバいと思いながらも、追って来る仕事を投げ出すことができない。結局その数日後、胃痙攣と嘔吐で苦しむハメになった。
 そんな中先週末、エステティックサロンの取材仕事が入った。体験取材なのでモデルを用意していたが、ドタキャンをくらって急遽わたし自身がモデルをつとめることになった。
 仕事とはいえ、フルコースの全身オイルマッサージ。極楽な2時間だった。そしてそこでも「腰が異常に張っている」と言われてしまう。

-------腰はヤバい。数年前、似たような状況で最終的にわたしが当時の仕事から逃げ出したきっかけは「腰痛」だった。
 今よりもヒドい忙しさだったが、何せ若かったので無理がきいた。それがあだとなり、気づいたときにはどうにもならなくなって病院送りの顛末。腰に鍼を打たれながら、「バカバカしい。こんな生活やーめた!」と、正しい選択をしたのだった。


 翌日の土曜日。
 わたしはふと、この日は何が何でも「遊ぼう」と思い立った。「Macの前に5分以上座らない」と決め、出かける予定を立てた。
 明け方まで仕事をしたので本当は午後まで寝ていたいところを、目覚ましをかけて昼前に起き、午後は新宿御苑へ花見。夕方は知人が出るお芝居を観に行き、夜はいきつけのバーで友人と酒盛り。久しぶりに、休日らしい休日を思う存分過ごした。
 すると翌日曜日。睡眠時間は短かったはずなのに、なぜか気分が爽快だった。あれほど辛かった首こり肩こりも、心なしか軽くなっている気がする。そしてなにより、気持ちが晴れ晴れと明るい。特に何をしたわけでもない。前日思い切り遊んだだけなのに。

 実はこの数ヶ月、疲れを癒すためだと、土日は睡眠をとる努力ばかりしていた。週末仕事は自宅にこもるので、時間は自由だ。だから作業時間以外は1分でも長くベッドにいて、なるたけたっぷり睡眠をとろうと考えていた。それが身体を癒す最善策だと信じていたのだ。
 しかし、今回のことでよく分かった。身体ばっかり癒しても、疲れはとれない。心も癒さなければ、人は元気になれないのだ。

・どんなに「好き」なことでも、仕事は仕事。仕事はストレス。
・睡眠は、身体を癒しても心は癒さない。
・多少無理をしてでも存分に遊べば、心は癒える。

 やりたいことばかり優先させて、すっかり遊びべたな野暮な大人になってしまっていた自分を深く反省。これからは、上手に遊ぶぞ!!
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by etsu_okabe | 2006-04-05 00:32 | 日々のこと/エッセー

美しく働く

 最近仕事が忙しくて帰りが遅いので、居酒屋で夕飯を済ませることが多い。一人なのでカウンターに通されるのだが、わたしはそこから板前さんたちのキビキビ働く姿を見るのが好きだ。
 一見頼りなさそうな小僧っ子が、要領よくシャキシャキと動いて一つの料理を魔法のような早さで仕上げていく様を見ていると、疲れた脳みそがじ〜んと緩んでいい気分になってくる。

 今日、ランチに入った喫茶店も、そんな気分にさせてくれる店だった。
 木枠のガラスドアを開けるとカウベルのコロンという音。天井近くの吊り棚に納められたスピーカーからはもの凄くいい音で甘く切ないニーナ・シモンなんかが流れ、角の丸くなった木の椅子には手編みカバーのクッションが置いてある。カウンターには小さな招き猫の置物が十数個。その奥から、ジュージューと何かを炒めるおいしそうな音がする。
 おしゃれなカフェも嫌いじゃないが、わたしはこういう煤けた“喫茶店”が大好きなのだ。
 しかしこの店、サラダのドレッシングは抜群においしくて後を引いたが、喫茶店の“肝(きも)”のはずのコーヒーはいまひとつだし、日替わりランチのスパゲティも飛び抜けた味ではない。なのにわたしがものすごく気持ちよい時間をそこで過ごせたのは、満席に近い店内をたった一人で切り盛りしているママさん(厨房は夫が守っているようだった)の、無駄のない美しい仕事っぷりのおかげだった。
 30席近い椅子は8割方埋まっていて、うちひとつは子供連れの6、7人の団体。わたしのオーダーのあとそこから一気に大量の注文が出て、本当ならてんてこ舞いのはずだ。セットのサラダ、食器類の用意、長居の客からは水のおかわりの声、食事の終った席のアフター・ドリンクの用意......考えただけでも目が回る。
 ところがママさんは、そんなめまぐるしい状況を実に優雅に、しかも全く抜けなく、客から一切のクレームを出させない完璧さでさばく。たった一人で全ての客の動向を見極め、的確な判断で次の仕事をチョイスする。客の要求を事前に察知し、要求される前に提供してしまう。
 わたしが見ている限り、食後のコーヒーを待たされている人は一人もいなかった。レジの前で待たされる人も、ただの一人もいなかった。出来上がった料理がカウンターでいつまでも湯気を立てて置かれたまま、という状況も皆無。とにかく、完璧だった。
 しかもこのママさん、笑顔が素晴らしい。疲れやいらつきなど一切見えない。それどころか、こちらを包み込むような慈愛に満ちた笑顔なのだ。
「ごちそうさま!」と言ってカウベルを鳴らしながら、「また来よう」とかたく思っているわたしいがいた。
 こういう店は、流行る。
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by etsu_okabe | 2006-04-04 01:04 | 日々のこと/エッセー

言葉と責任

 わたしがどうしても許せないことのひとつに、「言葉をないがしろにする」というのがある。
 このブログで、コメントを下さった方とモメてしまったことが何度かあるが、いずれもその発言の無責任さが許せなくて、ついそれを指摘してしまったことが発端となり発生したトラブルばかりだ。
 言えば無意味な言い訳を攻撃の形で突きつけられたり、突拍子もない嫌がらせを受けたりする可能性があることは重々承知の上で、それでも許せない気持ちが勝ってひと言言ってしまう。

 ごく最近、こんなことがあった。

 とあるネット上のコミュニティで、「この病院だけは行っちゃいけない」という発言があった。するとそのあと、続々とその病院の悪評が書き込まれた。「実際に自分が誤診を受けた」というリアルなものから、「知人がヒドイ目にあった」という伝聞形式のものまで様々だが、一万人を越える人が集まるコミュニティにおいて、その病院は「ヤブ医者」というドでかいレッテルを貼られてしまった。
 しかし、本当に信じられる書き込みは実際いくつあるのか。
 決して暇ではないのだが、ざっくり統計をとってみた。

●自分が実際になんらかの被害を被ったという書き込み------6件
●家族や知人が被害を被ったという書き込み------7件
●ヤブだという噂話の書き込み(伝聞含む)------18件
●その病院にかかったが何も問題がなかったという書き込み------7件
●このコミュを見て行くのをやめたという書き込み------2件

 40件の書き込み(2種類の内容を含む書き込みは重複カウント)中、なんと、実際に被害にあったと書いたものはたった6件で、何も問題がなかったという書き込み7件より少ない。
 家族や知人の被害を書いたものは真実味はありそうだが、実は「それ本当にその病院のことだって言えるの?」という疑問が残る。
 最も多い18件を数えたのは、ただの噂話を書いたものだった。
「あそこは昔から評判悪い」
「救急車に乗った人が「そこだけには運ばないで」と叫ぶらしい」
「こんなヒドイ目にあった人がいたそうだ」
 といった、何の根拠もない無責任な悪評ばかり。しかし無責任なだけに、その書き込みは揃いも揃って恐ろしく、大変面白い。その面白さに引っ張られ、こき下ろしはヒートアップする。

 わたしは実際その病院にかかったことがない。かかったことがあるという友人知人も一人もいない。それなのに、その病院はわたしの中で完全にマッド・ホスピタルになってしまった。
 先週お腹を壊したとき、徒歩1分で行けて24時間オープンの救急病院であるその病院へ、わたしは行くことができなかった。そして、深夜から朝まで胃痙攣と嘔吐で6時間ものたうちまわるというバカを演じた。そのコミュニティサイトに集まる多くの人と一緒に「ただの噂話」を本当の話と混同し、「あそこはヤブ!」とジャッジしたのだ。

 複数の病院を選べるとき、評判や噂を考慮してその病院を除外することは間違っていない。しかし、死ぬほど苦しい思いをしているとき、その病院しか開いていないとき、そこが自力で歩いて行ける場所にあるとき、それでもその根拠のない噂を信じてそこに行かないなどというのは、愚の骨頂としか言いようがない。わたしはとんでもないアホだ。

 無責任な言葉は、こうして人に正しいとは言えない判断を下させてしまうことがある。
 もしわたしが、翌日違う病院へ行って何事もなく家に帰って来たあと、このコミュニティサイトに「いやぁ、このコミュを読んでなければ危うくあのヤブ医者に行っちゃうところでした。お陰で別の病院に行って無事治療してもらいました!」などという恥ずかしい書き込みをしていたら、その無責任な言葉によって、さらに何人かの人がわたしと同じ間違いを犯したことだろう。

 世の中に溢れかえる様々な情報を取り入れるとき、わたしという濾紙を通して何をドリップするのか、そこにはわたしの責任がある。
 ただのアマチュアブロガーだけれど、そこだけは、絶対に絶対に守りたい。
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by etsu_okabe | 2006-04-03 01:48 | 日々のこと/エッセー