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小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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 現在開催中の『フェスティバル/トーキョー』の演目、維新派『ろじ式』を観てきた。
「喋らない台詞、踊らない踊り、歌わない音楽」と言われる維新派のパフォーマンスがその夜わたしを引きずり込んだのは、怪しい「路地裏」の世界。
 子供の遊び場、大人の逃げ道、家庭ゴミの掃き溜め……路地が持つ様々な顔が、集団による舞踏と短い大阪弁センテンスの羅列とが刻む、緻密なリズムに乗って語られる。路地から路地へ迷い込む旅は、沖縄の島々やアジアの国々を経て、はるか南米にまでわたしを連れていってくれた。

 舞台上には何百個もの立方体の木枠があり、演者たちがそれを動かすことによって、場面が変わる。よく見ると木枠箱のそれぞれには、古代生物の骨から現代の日用品までの標本が納まっている。それは、時代が変わって家が変わって住む人が変わってもそこにあり続ける路地が、飲み込んできたものたちの集積なのだろう。
 そう考えたら、数年前に読んだ『アースダイバー』の読後感を思い出した。
 世界中へ続く「横軸」の路地旅と、過去へも未来へも続く「縦軸」の路地旅。それがこの「ろじ式」の世界だったのかもしれない。

 劇中には、タイトルから想起せずにはおれない、つげ義春(「ねじ式」ね)作品へのオマージュが、そこここに散りばめられていて、つげファンとしても、たいそうくすぐられた舞台だった。

 会場は廃校の体育館で、草むらの校庭には、まるで舞台装置のように芝居がかった屋台村が作られていた。これも維新派の名物だそうだ。
 観劇後のぽーっとした気分のままふらりと入り、赤ワインを鶏肉のねぎ塩だれでちびちびやりながら、「表現」について悶々と考える。ああ、誰か誘えばよかった。
 胸の辺りをドンッと突かれた一夜だった。


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by etsu_okabe | 2009-10-30 00:21 | 映画/芝居のこと
 この週末、文楽鑑賞に出かけた。演目は『絵本太功記』と『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)』。
 特に『日高川入相花王』は、元ネタである<道成寺>で有名な『安珍・清姫伝説』が大好きなので、どうしても観たかった。

 愛しい男に裏切られ、嫉妬のあまり蛇と化して男を焼き殺してしまう乙女、清姫の苦しみは、どの時代の女であっても共感せずにはおれないだろう。
 それが文楽作品となると、義太夫節の激しい音曲に煽られて、火の粉が舞うような迫力で迫ってくるのだから、泣くより先に体が固まってしまう。我が身が蛇となった地獄の日々を思い出し、息が詰まりそうになる。
 ぐぅおおおお、にっくき安珍~~~~~。

 ところで、文楽で演じられる「渡し場の段」には、安珍は登場しない。愛しい男を追って日高川まで辿りついた清姫が、安珍に買収された渡し守に船を出すことを断られ、身悶え泣き崩れるところから、蛇と化して川を渡りきるところまでが描かれる。二人の馴れ初めもその後のことも一切出てこないのだが、それだけに、清姫という一途な女が、切ない恋心を憎しみに変えていく様がじっくりと表現され、恐ろしい(・・・・・・特に、身に覚えのある者にとっては。ふふ)。

子供向けアニメで、これはスゴイ。ブラボー日本昔ばなし!
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by etsu_okabe | 2009-10-18 23:18 | 映画/芝居のこと

ほろり「芝浜」

 先日、江戸東京博物館のホールで行われた落語公演に行ってきた。
 目当ては柳家権太楼の「芝浜」。円朝作と言われる、夫婦の愛情を描いた人情話だ。

 舞台には座布団ひとつきりで、他には何もない。しかし軽妙なマクラのあと、やおら師匠がシナを作って「ねえ、おまいさん」と語りだしたとたん、そこは江戸の下町になる。
 大酒呑みのダメ亭主を立ち直らせようと、身を切る思いで一芝居うち、それをじっとひた隠しにしてきた女房の辛さ。その愛の深さに、思わず涙がこぼれてしまう。周囲からも、洟をすする音がする。
 舞台で身を震わせながら亭主に詫びる女房は、確かに坊主頭のおじいちゃん(=権太楼)なのに、観客にはもう、しっかり者のおかみさんにしか見えない。それがちょっと首の傾きを変えれば、単純で心優しい魚屋の熊さんだ。その二人のやりとりに、わたしはたっぷりと泣かされた。

 それにしても、語りの他には手ぬぐいと扇子の小道具だけで、聴衆をあっという間に別世界に連れていってしまう落語の表現力には、毎度打ちのめされる。いわゆる“名人”と呼ばれる人の噺は、何億もかけて作った映画や舞台でも太刀打ちできない、何かを持っている。それが「芸」というものなのだろう。
 芸を高めることを「磨く」と言うが、磨いて磨いて磨きぬかれた珠玉を、この日は見せてもらった。

 さて。わたしは文章を、しっかり磨けているだろうか。
 
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by etsu_okabe | 2009-10-15 02:08 | 映画/芝居のこと
 女性が「少女」と「女」のボーダーラインを跨ぎかけているとき、踏み越えた1/2の「女」が渇望し、踏みとどまった1/2の「少女」が嫌悪するもの。それが<性愛>だ。女性の思春期というのは、そうやって引き裂かれた感情に、振り回される時期を言う(わたしが言ってるだけだけど)。
 一方で同じ時期に男は、<純愛>と<性欲>の間で引き裂かれている(これもわたしが言ってるだけ)。ボーダーを超えた途端に、それは肉体の中で上下にきっかり分離するらしい。つまりは男がよく言い訳に使う、上半身下半身別人格論だ(けっ)。
 女はそんな単純に解決はしない。ボーダーを越えて性愛を求めても、見誤った相手に性欲で切り返されて傷つき、また求めては傷つきを繰り返しながら、いつか本物の性愛を得、あるいは育て、大人の女になっていく。

 映画『あの日、欲望の大地で』は、そうした“性愛の成長”を喪失してしまった女の物語だ。

 主人公は、ボーダーラインまっただ中で揺れる少女期、それ故に罪を犯し、その重過ぎる“秘密”に人生を絡めとられて生きている。
 いったいどんな罪が、秘密が、彼女をこんな生活に追い込んでいるのか。ストーリーは、主人公の少女期と現在を交錯させながら進んでいく。
 その中で、二人が同じ台詞を言う場面があった。
「お願い、わたしを連れて逃げて」
 少女期の彼女と、現在の大人の彼女。言葉を投げかけた相手はどちらも性交渉のある男だが、それぞれのとった態度はまったく違う。言ってみればその違いとは、愛と欲。そしてそのことが、彼女の心と運命をぐらっと揺さぶる。

「愛」と「欲」。
 交わった男たちの中にある二つの性はまた、自らの中にもある。あの日、自分に罪を犯させた母もまた、このふたつの性の間で焼かれていた。主人公はそのことに、気づいたのだろうか。そして喪失したものを、取り戻すことができるのだろうか。


 映画館を出ると、日の暮れた渋谷は台風18号が運ぶ重たい雨に打たれ、冷えきっていた。
 うう、こんな気分のまま帰りたくないなあ、と思っていたら、思わぬ友人の上京情報が。しかも男性。そのうえ楽しい人。無理を言って一献つきあってもらった。お土産までもらった。
 映画を観たあとに主人公が乗り移ることがあるが、わたしがシャーリーズ・セロンになってゆきずりセックス……という顛末にはならなかった。よかったよかった。
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by etsu_okabe | 2009-10-10 01:05 | 映画/芝居のこと