小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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つぶやきコレクション

 3年前に登録したままほったらかしだったtwitter、最近やっと面白さがわかって利用中。
 オバマと水道橋博士とオノ・ヨーコと団鬼六のつぶやきが、数分違わず並ぶという大変にシュールな様を楽しんでいる(団鬼六はBotだが、もっとも本当の“つぶやき”に近い)。

 わたし自身は全く益のないことばかりつぶやいているが、なぜだかたまに見ず知らずの人がフォローしてくれたりすると、うっかり「いいことでもつぶやいてみるか」などと考えてしまう。しかし、そうやって構えて書いたものほどつまらないものはなく、途中でやめておく。
 このツールの面白さは、他人の思いつき言葉を拾うことにある。そこがブログとまったく正反対なところだ。
 ブログの方は、ひとつの文章作品、または情報としての完成度が求められる。少なくともわたしは求めている。自戒もこめて言うと、思ったことをただ書き散らした思考停止文など、読まされたくはない。
 ところがtwitterは、格好つけてひねった文ほど鼻につく。テキストにもTPOがあるということなのだろう。「書く」となると肩に力の入ってしまうわたしには、あまり向かないかもしれないので、もっぱらフォローを楽しもう。

 団鬼六のお気に入りつぶやきをひとつ。
『男は、女の本能でもあり、精神的なアクセサリーでもある羞恥の一挙一動に好奇の眼を光らせ、モソモソと官能を高ぶらすのである。 』
 きゃあん。
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by etsu_okabe | 2010-01-31 12:00 | 日々のこと/エッセー

目的は、なに?

 たとえば職場で、ふだん経費節減にうるさい上司から、
「これで4人分のケーキを買ってきてちょうだい。もうすぐ大事なお客様が来るから、じゅうぶんなおもてなしをしたいの」
 と、2,000円を渡されたとする。
 ケーキ屋さんに着くと、200円のロールケーキと600円のショートケーキしかない。200円なら安上がりだが、見るからにしょぼい。いっぽう600円の方は豪華で美味しそうだが、これではお金が足りない。

 さて。ここは迷うところだろうか?

 答えはノンだ。なぜなら、ケーキを買う目的が明確だから。
「大事なお客様をじゅうぶんおもてなしする」のが目的ならば、自分の財布から400円足してさっさと600円のケーキを買うのが正解。そして1分でも早く帰って、部屋の掃除やお茶の準備をするべきだ。上司は喜んで400円返金してくれるだろう。

 ところがここで、迷う人がいる。
「経費節減にうるさい上司だから、200円の方がいいんじゃないか」
 と安い方を買って帰ったり、もしくはショーケースの前でさんざん迷い、結局お客様の来訪に間に合わなかったり。
 こういう、目の前に問題が立ちはだかるととたんに一番大事な<目的>を忘れてしまうタイプの人は、友達なら笑って許せても、仕事となるとそうはいかない。
 業務の効率向上のために指示していることに個人的な好き嫌いで反発してきたり(便利な新ツールを絶対に使わないとか)、どんな議題の会議にも「自分の負担を重くしたくない」という意見しか出さなかったり、目的とは無関係のおせっかいで余計な時間を使ったり……。仕事の場では、そうした人たちにいちいち「目的は何であるのか」を説いて回らねばならないのだから、大変に骨が折れる。時間も無駄だ。

 一方で、目的をしっかりと捉えて視線を離さない人とは、あっという間に仕事が進む。そして終わる。
「あれをあれして」
 と言うだけで、何を一番にして何を後回しにするのか、いちいち質問や相談などしなくても、お互いに分かる。目的はたったひとつなのだから、ちっとも難しいことではない。
 この手の人は、メールの書き方ひとつとっても実にうまく、タイトルを読んだだけで「目的」が分かるし、内容を読んだあとでこちらから質問しなくては済まないようなことは、ほぼない。しかも、短文だ。

 こう考えてみると、人生という大きなスパンで考えたとき、目的を見失うか見失わないかで、ずいぶんとその濃度が違ってくる気がする。
 などと書いてはみたが、わたしの場合、「目的」そのものが突然変わったりするんだよな、よく(へへっ)。
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by etsu_okabe | 2010-01-28 02:56 | 日々のこと/エッセー

二人きり

 携帯電話の番号しか教え合っておらず、共通の知人もいない。だから、彼はある日突然わたしが死んでも、誰からもそれを知らされることはない。急にわたしが電話に出なくなったりメールに返信しなくなっても、「男でもできたかな」で済まされて、それっきりになってしまうだろう。家を訪ねて来てくれたとしても、誰もいなければ「やっぱりな」でおしまいだ。
 そういう関係の人から先日、久し振りに電話がかかってきたのを、わたしは取らなかった。ちょうど仕事をしていて、集中を断ちたくなかったからだ。しばらくしてから録音されていたメッセージを再生してみると、うめくようなくぐもった声で何を言っているのかさっぱり聞き取れない。夜中だったから酔っているのかもしれないと、メッセージは消去し、メールを送った。
 しかし、翌朝になっても返信がない。今までにはなかったことだ。
 いやな気持ちで1日過ごし、2日過ごし……今日で5日が経った。夜になって、最悪な想像に苦しんでいる。彼には重篤な持病があることを、わたしは知っているのだ。
 それでもわたしには、確かめるすべがない。心の中に、真っ黒な穴があいている。
 “二人きり”という人間関係は、一人ぼっちよりもなんだか寂しい。

 彼が好きだったギタリスト&ヴォーカリスト長谷川きよしの音を漁っていたら、こんな逸品を見つけた。大好きな映画音楽「黒いオルフェ」。サックスは本多俊之。


     →オリジナルはこちら
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by etsu_okabe | 2010-01-21 03:23 | 日々のこと/エッセー
 監督自身の失った記憶を取り戻す旅という、ごく私的な物語を、アニメーションで表現したドキュメンタリー。

 1964年生まれのわたしにとって、ものごころついた頃から、中東はいつでも戦争まっただ中だった。ニュースで「パレスチナゲリラ」という言葉を聞かない日はなかった気がするくらいだ。
 「日本はもう二度と戦争をしないんだよね、ね、そうだよね」
 父に、何度たずねたか分からない。
 「大丈夫だよ、日本は絶対に戦争しないから」
 返事を聞いて、この国に生まれて本当によかったと、そのたびに思ったものだ。
 わたしにとって『8月に思い出す大昔の悲しい過去』である戦争を、よその国ではまだやっているということは、怖いのと同時に不思議だった。幼い頭には「きっとあの国、遅れているんだ」としか考えられなかった。

 1982年、18歳のわたしはそう難しくない地元短大への進学を決め、受験勉強もせずに夜な夜な家を抜け出しては飲み歩くような、怠惰な日々を送っていた。
 同じ年、この映画の監督アリ・フォルマンは19歳で、イスラエル軍に徴兵され、レバノン侵攻に参加していた。そこで起きた「パレスチナ難民大虐殺」こそが、彼の頭からすっぽり抜け落ちている記憶だ。
 空いた穴を埋めるために、アリはかつて共に戦った仲間を訪ね歩く。それぞれの口から、それぞれの記憶として語られる戦場が、アニメーションによってときに幻想的に、ときにリアルに描かれていく。

 「アニメでしか描けなかった作品」
 この映画に贈られている賛辞だが、その本当の意味は、最後の最後になるまで分からない。
 ラストシーンの衝撃は、アリ監督が記憶を取り戻したときの衝撃そのものなのだと思う。監督はそのショックを観客に体験させるために、ここまでのアニメーションを作ったのに違いない。わたしはそう思う。

 「国」のゼッケンをつけて戦っている最中には見えない重大なものを、戦争は生み、そして奪う。ゼッケンを外したとき、その重みと虚しさに、人はたった一人で立ち向かわなければならない。
 戦争が最悪なのは、そこのところなのかもしれない。


【戦場とワルツを】トレイラー

 上のトレイラーでも最後にちらっと出てくる、この映画のタイトルにもなっている名シーン、銃撃戦の中、兵士が機関銃を乱射しながら踊るワルツ【ショパン/ワルツ第7番 嬰ハ短調 Op.64, No.2】。大好きな、エフゲニー・キーシン君でどうぞ。↓↓↓


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by etsu_okabe | 2010-01-14 03:12 | 映画/芝居のこと
a0013420_13124177.jpg 昔の話だが、恋愛関係の中で激しく傷つけられたとき、思春期にもできたことのない重いにきびが顔中にふき出し、たいそう醜くなったことがある。その頃は、ただ純粋に相手を想っているだけの自分が哀れで惨めで、毎日泣き暮らしていた。食べても食べても痩せ、一日中頭がぼんやりしていた。そのうち彼のことを考えていなくても、往来であろうが人前であろうが、ぼろぼろと泣くようになった。
 あのときわたしはやはり、少し自分を狂わせていたのだと思う。自己防衛力が強いので最後は自分が可愛くてそうなる前に逃れたが、あの先には、彼の家に火をつけたり、ナイフを持って待ち伏せしたりするわたしがいたかもしれない。
 想いが強くまっすぐであればあるほど、ちょっとした衝撃でぽきっと折れる、それが人の心だ。以前に書いた清姫もそうだが、一途がそのまま火を吹けば、人は簡単に、靴下を裏返すように鬼に変貌する。

 初春花形歌舞伎@新橋演舞場昼の部を観てきた。それぞれ素晴らしい舞台だったが、白眉は市川右近「黒塚」。

「黒塚」は、安達ヶ原の鬼女伝説を下地にした芝居だ。
 伝説では、京都の公家屋敷に奉公していた岩手(いわで)が、病にかかった姫を助けるには胎児の肝がよいと言われてそれを信じ、奥州安達ヶ原でまんまと臨月の女をとらえ、その腹をかっさばいたところ、それが生き別れた自分の娘だったことを知り、狂う。以来岩手はその場所で、旅人を殺しては生肝を食らう鬼女となった。
 歌舞伎の「黒塚」は、岩手が鬼女になるまでのストーリーが少し違う。彼女は夫の裏切りで一人寂しい安達ヶ原に取り残されたという身の上で、夫への怨みを募らせるうちに鬼となり、人を殺し続け、それをまた悔いてもいるという設定だ。
 ある日、たまたま一宿を乞うてきた旅の僧に、仏道へ入れば救われると説かれて喜んだのもつかの間、岩手は僧たちの裏切りを知り、再び鬼女となって憤怒の炎を燃え上がらせる。
 このシーンが凄まじい。その直前、救われると喜び浮かれて舞った踊りが、娘のように可愛らしかっただけに、それは恐ろしいというより哀れで悲しい変貌だ。
 岩手は最後、僧たちの法力の前に、己の浅ましさを恥じて消えていく。
 理不尽な、とどうしても思う。岩手を鬼女にしたのは夫なのに、彼女は鬼になってもその怨みを晴らせなかったどころか、死ぬまで自責に苦しまねばならないのだ。

 わたしの顔には、あのときのにきびが痕になって、今も残っている。それだけ人を好きになった勲章だ、などとうそぶいていたこともあるが、醜いものは醜い。消せるものならきれいにしたいと思う。
 気づかぬうちに、わたしもこうして人に痕を残していやしないか、気になった。鬼にしたことはないと思うけれど……。
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by etsu_okabe | 2010-01-11 13:23 | 映画/芝居のこと

年末年始ダメダメ日記

 一年前が嘘のように、忙しさとは無縁だった2009年師走。それがアダとなって、ついだらだらと過ごしているうちに、だらだらのまま2010年を迎えてしまった。
 どれだけ「だらだら」だったかと言うと、年賀状を今(1月3日19時)から書くというくらいの、だらだら。
 こんなダメスタートで始まった2010年、いったいどんな年になるのやら。

 2009年は、ひと言で言えば『出会い』の年だった。それはもちろん、幽・怪談文学賞受賞という扉が開いたことが大きい。
 人と馴染むのに時間がかかるわたしとしては緊張することの多かった一年だったが、新しい出会いで得たものは、ナニモノにも代えがたい宝物になった。
 この宝物は、宝箱にしまいこんでは意味がない。それをどう使って自分をより良くするかが、これからのわたしの課題だ。

 2010年、今年もたくさんの人たちのお世話になるだろう。誰かを傷つけてしまうだろうし、傷つけられることもあるだろう。失敗して泣くこともあれば、喜びで泣くこともあるだろう。何かを得れば、何かを失うだろう。死んでしまいたくなるかもしれないし、死にたくないのに死んでしまうかもしれない。
 どんなことが起きてもいいから、そのとき、わたしがわたしらしくいられますように。

a0013420_19563949.jpg幽12号絶賛発売中!
エロ怖怪談がスゴイです・・・・・・。

今年もよろしくお願いいたします。
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by etsu_okabe | 2010-01-03 20:03 | 日々のこと/エッセー