小説を書いたり、酒を飲んだり、恋をしたり|岡部えつ


by etsu_okabe

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 快楽は生きる糧であり、動機でもある。苦しいこともしんどいことも、その先にある快楽が予測できるからこそ乗り越えられる。快楽なくしてなんの人生ぞや。No Pleasure, No Life. 快楽礼賛、ビバ快楽!
 などとふだん気取って吐かしてはいるが、人生を豊かにしてくれる達成感や充足感といった「清らかな快楽」とはまったく別モノの、即物的な悪魔の快楽のほうにより馴染みのあるわたしとしては、笑いごとではない映画、『酒とバラの日々』を鑑賞。

 酒好きの陽気な男と、チョコレート好きの女の子が、恋に落ちて結婚をする。日々の接待仕事で酒に明け暮れる夫が、赤ん坊の世話にかまけて自分を顧みない妻をなじって発する「酒でも飲んで待っていてくれればいい」から始まる、二人のアルコール地獄。これがこの映画の物語のすべてだ。
 入院治療と更生施設を経てアルコール中毒から立ち直った夫に、アルコールと手を切れない妻が言う「さみしいの」「飲んでいないと世の中が汚く見える」という台詞は、快楽依存の果てに行き着く底なしの渇望を想像させ、わたしを震え上がらせた。
 この世にあまたある「依存症」を誘発する快楽。豊かな世の中というのは、この悪魔の触手をかいくぐるサバイバルゲームなのではなかろうか。
 ……とかなんとか考えた直後、今夜は家に一滴の酒の用意もないことに思い至り、「しまった!」と発してしまう体たらく。
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by etsu_okabe | 2012-11-17 19:09 | 映画/芝居のこと
 田口ランディさんの『サンカーラ』を読み始める。

 2011年3月11日、その日わたしは日本にいなかった。激しい揺れも、停電も、交通機関や電話回線の混乱も、なにも体験せず、海を隔てた場所から、テレビで津波や原発の映像を震えながら見ていた。
 だからわたしの震災体験は、二日後に薄暗い東京に戻ってきたあと、水の調達に苦労したり、元々持っているプチパニック症(自己診断・笑)が出て一人で電車に乗れなくなったりした、その程度のものだ。計画停電も、武蔵野市は結局一度も施行されなかった。
 その頃わたしは人に会うたび、あの日あの瞬間に何をしていたか、どんな体験をしたかを聞きまくっていた。なにかのためにリサーチをしていたわけではない。ただ、少しでもあのときのことを知りたかった。いや、あのとき人がなにを体験したのかを知りたかった。訊ねた人は皆、いやがらずに詳しく答えてくれた。
 あるとき、どこへ行っても熱っぽくそんな質問をしているのは自分だけだということに気がついた。そしてなんとなく感じていたことを、そこではっきりと自覚した。まことに愚かで滑稽なことに、わたしは”共感”への不足感を、そうして穴埋めしようとしていたのだ。
 以来、必要でないかぎり質問はやめている。そしてわたしはいまだに埋まらない穴を抱え、自分のそうした境遇になにかしらの意味を与えようとしては、その馬鹿馬鹿しさに自嘲し、でも気にせずにはおれず、いつまでも穴の周りをあてもなく歩き回っている。

 あの大地震は東北に、日本に、世界に、甚大な被害をもたらした大災害だが、同時に世界中の個々人に、それぞれの感受性に任せた荷物を残していったように思う。
 そんな思いがどっと押し寄せてきた『サンカーラ』の冒頭。お茶を淹れなおして、読み進めるところ。
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by etsu_okabe | 2012-11-15 12:39 | 日々のこと/エッセー

神社で願いごとはしない

 都心の林立するビルの谷間に、ふいに現れるこんもりとした森。緑化のために植えられた若々しい木々とは趣が違う、古めかしく湿気の濃い匂いがしてきたら、それはたいてい神社だ。東京には、こうした風景がそこここにあるのがとても好ましい。

 ところで、わたしは神社に参拝するとき、何も願いごとをしない。ポリシーでもなんでもなく、ただ社殿の前に立つと頭が真っ白になって、願いごとなどまるっきり浮かんでこないのだ。だからいつも手を合わせながら「どうもこんにちは」とか「ここはいいところですね」などと、心の中で言っている。
 それじゃあわざわざ神社に来てお賽銭まで入れる甲斐がないじゃないか、と思われるかもしれないが、これがそうでもない。
 昔、お祖父様が神主をしているという人と一緒にある神社を参ったときにこの話をしたら、
「それは正しい参拝です。神社に個人的な願いごとなど本当はするものじゃない。神社は心をキレイにしたり、エネルギーをもらったりする場所で、お参りもそのためにするんです。僕は疲れたなと思ったらこうやって通りがかりの神社に寄って、何も考えず手を合わせてリフレッシュや充電をします」
 と言われたことがあるのだ。これはちょっと嬉しかった。
 わたしは何の神様も信じていないが、それでも神社を見かけたら立ち寄って参拝せずにおれないのは、そうした「場」が持つなにかしらのパワーをどこかで信じているからだ。もしかしたらわたしには、彼の言った「エネルギー」を感じる力があるのかもしれない。そして神社の”使い方”としては、神様を信じてただすがるよりも、こちらのほうがずっと効果的なのではなかろうか。

 と書いてみたものの、「縁結びのご利益がある」などと聞くと、そのときだけは「良縁!」と心で叫んでしまうわたしである。一応独り者の乙女なもので。
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by etsu_okabe | 2012-11-13 15:51 | 日々のこと/エッセー

女たちの共闘

 なんにつけても「男/女」の範疇でものごとを考えるのが好きなわたしが、女を擁護したがるのは己が女であるからに他ならず、たとえば女二人に男一人の恋愛をしたあげくに悶着を起こしたとしても、わたしにとって泥仕合の"敵"は女ではなくあくまでも男であり、他人のそうした場面に出くわした場合も気持ちは常に「女たちの共闘」であり、それに勝とうが負けようが、闘い終えたあとに一献酌み交わしたい相手もまた女たちでなのである。
 つまりあらゆる女はわたしの戦友であり、わたしはいつでもそうした気持ちでものを書いている。
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by etsu_okabe | 2012-11-10 13:20 | 日々のこと/エッセー

目的を定めよ

 ものごとに不安や迷いを感じて自分らしい行動をとれないとき。それは「目的」がはっきりしていないときだ。

 わたしはどんなときにも、目的をまず定める。曖昧でも構わないし、途中で変わってもいい。とにかく「現時点」での目的を定めてしまう。そうしないと、他のなにかや誰かに振り回されたり、そのものごとに集中できなかったりして、無駄な時間を過ごすことになる。それはあとで必ず後悔となる。
 ところがそんなわたしも、突発的なできごとや、思いも寄らぬ展開を前に、「目的」を定められぬまま、ものごとに対峙してしまうことがある。するともう大変だ。慌てふためき、自分を見失い、空回りして、目も当てられない醜態を晒すことになる。気持ちに余裕がないから、その理由に気づくことさえできない。
 こうなったら、時を待つしかない。呼吸が整うのを、じっと待つのだ。
 待って待って、やがて鎮まった体に、わたしはこう問いかける。
 「で、目的はなんにする?」
 答えは意外と簡単に出る。そしてとたんに、目の前にすっと一本の道がひらけるのである。

 ちなみに、目的の達成率は、そう高くない。中途挫折もしょっちゅうだ。
 だが、それは大した問題ではない。わたしにとって大切なことは、「たった今」、自分がこの事象について「なにを目的にしているか」を知っていることであり、それに基づき「目的に向かって素直に行動する」ことなのだ。
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by etsu_okabe | 2012-11-07 22:55 | 日々のこと/エッセー