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小説家です|岡部えつ


by etsu_okabe

渋谷・円山町の気配に惹かれて

 先日、O-eastで友人のライブがあるので渋谷に赴いた。
 駅から坂道を上る道すがら、いつもの、敵陣内をほふく前進しているような寒々しい感覚に襲われる。同じ猥雑さでも、新宿に感じるような人間臭い湿気というか<何かの気配>というものがここにはない。それが、渋谷を好きになれない理由のひとつだ。
 しかし、そんなわたしに最近、好きな場所ができた。円山町。この日の数日前、気のおけない女友達に案内され、初めて入った円山町の店の趣が、どんぴしゃり、わたし好みだったのがきっかけだ。
 格子戸(だったかな、アレ......)を引いて入ると、玉砂利の中庭には蚊取り線香の香り。ゆったりと立ち上る煙りはどこか艶っぽい。顔が映るほど磨きあげられた床板に素足で上がり店内を見渡すと、黒塗りの鴨居の縁に艶やかな朱塗り。今にも細おもてのお女郎さんが真っ赤な襦袢の裾を引き摺りながら出て来そうな色気のある雰囲気に、四方をあの毒々しいラブホテル群が囲んでいるなんて、信じ難い気持ちだった。
 もしやと思い後で調べると、その店、かつてここが花街だった頃、芸者の置き屋だったそうな。

 この日も、ライブ前にその店で一杯引っ掛けるつもりだった。
 ライブハウスやクラブが並ぶ通りに辿り着く。歩道には若者が溢れ返り、携帯電話に向かってとりとめのないガナリ声を上げたり、コンビニの前に座り込んで何かをむしゃむしゃ咀嚼したり、奇声を上げて抱き合ったりしている。目を背けてしまうのは、十数年(20年か!?)前の自分を見るようで気恥ずかしいからだ。
 同行の友人(昨年まで恋人だった男)の腕を引き、逃げるように円山町ホテル街に入り込む。入り組んだ路地を迷わずに辿り着いたが、件の店は定休日だった。
 仕方なく他の店を物色しなかがらぶらぶら歩いていると、一軒の店の前に出た。佇まいは普通の居酒屋っぽい。道路脇に剥き出しで置かれた日本酒瓶の数々に惹かれ迷わずのれんをくぐると、小太りの、髪を引っつめた女将さんが「いらしゃい。暑かったでしょ?」と陽気な笑顔で迎えてくれた。
 まだ客の誰もいないカウンターの隅を二人で陣取る。わたしが日本酒好きだと言うと、いくつかお酒をピックアップしてくれた。
「実は今まで渋谷は苦手だったんですが、最近初めて円山町で飲んで、この町だけすっかり気に入ってしまったんです。ここが花街だった頃の名残りに、興味があって」
 そう切り出すと、女将さんは当時の話をしてくれた。その口調は明るく楽し気で、こちらの口もついポンポンと軽くなる。そうしてわたしは、この町を思う度に思い出さずにはおれない人について尋ねた。
「東電OL殺人事件というのがありましたよね。わたしがこの町のことを知ったきっかけは、あの事件だったんです」
「ああ、あれね」
 事件後、様々な人に飽きるほど話してきたのだろう、女将さんの表情がすっと沈む。
「あの人、この辺をいつも歩いていたのよ。恐ろしく痩せていて、あれは拒食症ね。可哀想に、恋人ができてもみんなお母さんに潰されちゃって、あんな風になってしまったのよ」
 彼女の亡霊にとり憑かれたように、事件後ここを詣でる女性たちが絶えないと聞いたことがある。わたしはそこまではしないが、それでもこの事件はずっと心の中にあった。彼女が昼間の東電エリートから立ちんぼの売春婦へと変身し彷徨った場所がこの近くだとは知っていたが、ここの女将が毎晩顔を合わせていたとは。
 聞きたいことは山のようにあるが、どうにも整理がつかない。ガッつくのもはしたないような気がしてできなかった。
「やはり、有名だったんですか」
「そうね。でも、すれ違ったって気にもとめられないような、魅力のない人だったわよ」
 化け物じみた化粧をし、長髪のカツラを被っていたというから、よほど目立っていたのかと思ったが、実際毎晩会っていた人が持つ印象は、そんなものなのかと驚いた。そしてさらに、驚く話を聞かされる。
「つい去年だったか、あの事件のことを書きたいっていう女性を連れて出版者の人が来てね、その女性というのがあの東電OLにそっくりなの。あたしびっくりしちゃって。あれは東電OLの妹さんなんじゃないかって、そう思ったのよ。それで『あの事件はもういいんじゃないですか。ご家族も苦しむでしょ』って言って、追い返しちゃったわ」
 女将さんは、心底あの東電OLを哀れんでいる様子だった。

 街には気配というものがあるが、それが渋谷には感じられなくて好きになれないと冒頭に書いた。しかし円山町にだけは、何とも禍々しい気配を感じる。それはどこか切ないような、うすら寒いような、落ち着かない気配だ。
 わたしはその気配に今、急激に惹かれている。渋谷という街が何かの熱に浮かされて重心を失っている中で、唯一ひっそりと、これまで堆積してきた怨念をゴロン、ゴロンと底に転がせている。円山町はそんな街だと思う。
「酒飲んでるだけじゃん」と言われればまあ、その通りなのだが。
by etsu_okabe | 2004-06-28 01:16 | 日々のこと/エッセー