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小説家です|岡部えつ


by etsu_okabe

人を鬼にする裏切り|初春花形歌舞伎@新橋演舞場

人を鬼にする裏切り|初春花形歌舞伎@新橋演舞場_a0013420_13124177.jpg 昔の話だが、恋愛関係の中で激しく傷つけられたとき、思春期にもできたことのない重いにきびが顔中にふき出し、たいそう醜くなったことがある。その頃は、ただ純粋に相手を想っているだけの自分が哀れで惨めで、毎日泣き暮らしていた。食べても食べても痩せ、一日中頭がぼんやりしていた。そのうち彼のことを考えていなくても、往来であろうが人前であろうが、ぼろぼろと泣くようになった。
 あのときわたしはやはり、少し自分を狂わせていたのだと思う。自己防衛力が強いので最後は自分が可愛くてそうなる前に逃れたが、あの先には、彼の家に火をつけたり、ナイフを持って待ち伏せしたりするわたしがいたかもしれない。
 想いが強くまっすぐであればあるほど、ちょっとした衝撃でぽきっと折れる、それが人の心だ。以前に書いた清姫もそうだが、一途がそのまま火を吹けば、人は簡単に、靴下を裏返すように鬼に変貌する。

 初春花形歌舞伎@新橋演舞場昼の部を観てきた。それぞれ素晴らしい舞台だったが、白眉は市川右近「黒塚」。

「黒塚」は、安達ヶ原の鬼女伝説を下地にした芝居だ。
 伝説では、京都の公家屋敷に奉公していた岩手(いわで)が、病にかかった姫を助けるには胎児の肝がよいと言われてそれを信じ、奥州安達ヶ原でまんまと臨月の女をとらえ、その腹をかっさばいたところ、それが生き別れた自分の娘だったことを知り、狂う。以来岩手はその場所で、旅人を殺しては生肝を食らう鬼女となった。
 歌舞伎の「黒塚」は、岩手が鬼女になるまでのストーリーが少し違う。彼女は夫の裏切りで一人寂しい安達ヶ原に取り残されたという身の上で、夫への怨みを募らせるうちに鬼となり、人を殺し続け、それをまた悔いてもいるという設定だ。
 ある日、たまたま一宿を乞うてきた旅の僧に、仏道へ入れば救われると説かれて喜んだのもつかの間、岩手は僧たちの裏切りを知り、再び鬼女となって憤怒の炎を燃え上がらせる。
 このシーンが凄まじい。その直前、救われると喜び浮かれて舞った踊りが、娘のように可愛らしかっただけに、それは恐ろしいというより哀れで悲しい変貌だ。
 岩手は最後、僧たちの法力の前に、己の浅ましさを恥じて消えていく。
 理不尽な、とどうしても思う。岩手を鬼女にしたのは夫なのに、彼女は鬼になってもその怨みを晴らせなかったどころか、死ぬまで自責に苦しまねばならないのだ。

 わたしの顔には、あのときのにきびが痕になって、今も残っている。それだけ人を好きになった勲章だ、などとうそぶいていたこともあるが、醜いものは醜い。消せるものならきれいにしたいと思う。
 気づかぬうちに、わたしもこうして人に痕を残していやしないか、気になった。鬼にしたことはないと思うけれど……。
by etsu_okabe | 2010-01-11 13:23 | 映画/芝居のこと