なるほど確かに、彼女の言う"子から親への無償の愛"というのは、わたしが思う"保護が必要な間は、愛されるために愛してしまう悲劇"ということとは、微妙にイコールではない。
つまり、わたしはこの歌の解釈を、間違ったというわけだ。
だとしても、わたしはこの歌い手さんに対して「歌詞を書き直せ」とも「音源の販売やネットへのアップをやめろ」とも言う気はない。むしろ、アーティストとして一度世に出した歌は、どんな批判や作者の意図から外れた賛同にもみくちゃにされても、凛としてただ歌い続けて欲しいと思う。「子から親への無償の愛」を信じて書いたなら、信じて歌うべきだ。彼女が児童虐待に関わる仕事をしている立場なら話は別だが、彼女は、歌手なのだから。
そしてわたしは、歌詞の内容とは関係なくタイプとして好まないあの歌を、今後聴くことはないだろうが、もし聴いて感想を求められたとしたら「ちょっと異議あり」と言い続ける。もちろん彼女の他の歌で好きなものがあれば「好き」と言う。
歌と聴衆との関係とは、そういうものだと思う。小説と読者も、映画と観客も、しかり。
幼児虐待をテーマにしたこの歌を、わたしも最初にネット上で話題になったときに、一度だけ聴いた。
音楽的に好きなタイプのものではなかったので、特に感想は書かなかったが、歌詞の内容については特に違和感を覚えなかった。それは以前、幼児虐待について調べていて『保護が必要な子供である間、子供は自分を殺そうとする親でさえ、愛されるために愛してしまうという悲劇がある』ことを知っていたからだ。
この歌で、子供はその「愛してしまう悲劇」の渦中に親によって殺され、天使となって母親を愛し続ける。
そして今、この歌詞に違和感や反感を持つ人たちの意見を、Web上で拾い読んでみると、
・気持ち悪い、反吐が出そう
・こういう虐待児が理想なんすね
・親を切り捨てないと幸せになれない私を責めている
・被虐待児を追いつめる歌
・母があの歌を聴いたら、自分の罪が浄化されたと錯覚しそうだ
などなど……。
彼らは虐待の中「殺されず」に生き延び、大人になった人たちだ。親の保護がいらない年になれば、自分を殺そうとした親を憎んで当たり前だと思う。
被害者である彼らが「我慢して」「努力して」それを克服し、親を赦すべきだという考えには、わたしはそれこそ反吐が出る。「赦し」は一見、その人間のステージを上げたように見えて、その場しのぎの自己慰安である場合が多いからだ。それでは罪人が得をするだけで、この「罪業」を鎮めることにはならない。それに被害者は、その場しのぎの自己慰安では、本当の意味で癒されも救われもしない。
ところでこの歌は、幼児虐待のサバイバーたちに対して「あなたを殺そうとした親を赦せ」と歌っているのだろうか。
自分を殺そうとする親でも、愛されるために愛してしまう子供が、その悲惨な愛を抱えたまま殺され、死んでなおその愛情で親を愛し続ける。そんな歌詞はわたしには、悲劇の上に重なるさらなる悲劇に見える。親を憎めるようになるまで育ててもらえなかった子供が、愛に溢れる天使になるという結末は、痛烈な皮肉に映る。
文月さんは、ただただその無惨を歌っているのではないだろうか、と思うのだが、どうだろう。
思ったことを、脈絡なく書いた。
そしてそのあと、追記を書きました。
仰天した。飴屋法水氏が演じたのは、ピアニストを前にピアノを陵辱していくというパフォーマンスだったのだ。それも、一筋縄ではない。
彼はまず、淡々とピアノの歴史について語り出した。続いてピアノの構造、ピアノにまつわる様々なエピソードを。それは、ピアノへの思慕のように聞こえた。ところが、彼はそんな言葉の合間合間にピアノと戯れ、やがて乱暴に扱い、よじ上り、踏みつけ、次第にピアノを犯していったのだ。
対するスガダイロー氏は、陵辱され、しまいには殺されていく数台の古ピアノを前に、唯一その魔手を寄せつけぬピアノを、ひたすら生かし、生かし、生かしまくった。それはまるで、狼に喰われる仲間を淡々と見つめる野生の鹿のように、冷淡で活力に満ちていた。
紐にくくられ、吊るし首となったピアノの欠片たちがゆらゆらと揺れる下で、生き残りのピアノを「弾き終える」などという最後はないように思った。ならばどう「終わる」のか。息を飲んで見守る。
なんとピアニストは、唐突に、それを終え、後ろ足で砂を蹴るようにして、舞台を去った。
そこに誰もいなければ、わたしは叫びたかった。駆け回りたかった。そして自分で自分を殴りたくもあった。
体の芯で、衝動がぐらぐら煮えだした。
>>『スガダイロー 五夜公演 瞬か』
●追記
舞台上で楽器を壊すパフォーマンスは、そう珍しいことじゃない。でもそれはわたしが知る限り、プレイヤー本人が、自分の楽器を、演奏の延長としての昇華といった意味合いで、破壊したり燃やしたりするというものだった。
しかし飴屋氏のそれは、まるで違う。「僕はピアノを弾かない」という宣言のあと、ハンマーという<武器>を握ってなされた行為なのだ。ピアノを弾かない男が、ピアノを弾く男の目の前で、ピアノを犯す。ピアニストは、ピアノを弾き続ける限り、他のピアノは助けられない。そういう対話だったのだ。
●追記2
これはまったく余談だけれども、ピアノへの思慕ともとれる蘊蓄を語りつつピアノを陵辱していく様は、「愛している」と言いながら女を辱める「男」という生き物そのものの体現ではないか、などとも思ったことを、ここにこっそり告白しておく。