映画のDVDを2本観た。『ハンナ・アーレント』と『ヴェロニカ・ゲリン』。いずれも実在の女性を描いた物語だ。
ハンナ・アーレントは、ナチス政権下にアメリカに亡命したユダヤ人思想家。戦後、ホロコーストの中心的人物であったアイヒマンの裁判を傍聴し、そこで見た彼の様子から『凡庸な悪』という言葉で人間の本質を説いたが、それが「アイヒマン擁護」と捉えられ、同胞たちから激しい怒りをかい、世界中から激しいバッシングにあう。
ヴェロニカ・ゲリンは、アイルランドのジャーナリスト。90年代ダブリンにはびこり、少年たちにまで魔手を伸ばしていた麻薬組織に敢然と斬り込み、繰り返される嫌がらせや脅迫にも屈せず、その核にまで迫ったところで殺されてしまう。
どちらの作品も、観客に迫ってくるのは「信念」である。どんなことがあっても、課せられた使命を全うするために、自分を信じ続ける力。
彼女たちのような立場に立った経験はないから、これは想像するしかないが、ああした状況下でもっとも手強い敵は、孤独だろうと思う。家族や支持者がそばにいて励ましてくれても、それは容易に倒せる相手ではない。家族や仲間たちは彼女を愛すればこそ、危険から手を引いて欲しい、今すぐ世界から賞賛される駒も持っているのだからそっちを使って欲しい、という願いを持っていて、黙っていてもそれは滲み出てきただろう。それは彼女らにとって、もう一つの孤独になったはずだ。
戦友は自分自身のみ。そうなったとき、それでも闘う強さはどこからくるのだろう。
わたしもこうして利用しているが、SNSなどでたくさんの人がいろんな意見を発信する中で、浮かび上がってきた「承認欲求」という欲望。小恥ずかしいことだと他人のそれは嘲笑しながら、人は誰もが自分のその欲望には抗えない。
同意、同意、同意の数が、お金の価値と同じくらいはっきりとした自分の評価に思え、もっともっとと欲しがって、そこに燃料をくべずにはおれない。そうして、誰からも評価されぬことは、どんどん無価値化されていく。その人にしかできぬこと、本当に価値あること、与えらた本来の使命から遠ざかっていく。
温かく心地好い毛布のような「承認」を払い除け、裸で荒野を突き進んでいく彼女たちの崇高な魂を、わたしは見上げているだけでいいのか。
観終えたとき、握っていた拳の中でわたしの小さな使命がチリッと燃えた、そんな映画二本だった。